山を駆けた女性たちの軌跡をたどり、平成の30年間を振り返る貴重な記録『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著、山と渓谷社)。登山の世界で活躍した山野井妙子氏の壮絶な経験について、夫妻へのインタビューから一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/後編に続く)

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「俺たち、相当やばいんだろうな」

 平成14(02)年のギャチュンカン(中国チベット自治区)北壁は、下降が壮絶だった。足を置くスペースもなく宙ぶらりんなままのオープンビバークの夜、泰史はこう思っていた。「俺たち、相当やばいんだろうな」。5本打ったハーケンはどれも利きが甘く、チリ雪崩で飛びそうになる。2日かけても500mしか降りることができなかった。泰史が先行して下降、妙子が上から確保した。中間支点は取れないので、妙子はロープ1ピッチ分まるまる確保なしで降りた。けれど、持ち前の安定感で確実に降りてきたと泰史は言う。ルートファインディングをして、ハーケンを打って支点をつくるのは泰史のほうが得意だから、役割分担をしたともいえる。

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 氷河に降り立ってからも大変だった。「もっと歩けると思っていたのに」と妙子はぽつりと言う。とうとう二人は荷物を捨てた。妙子は全部の荷物を捨てようとする泰史を押しとどめ、アルファ米1袋だけをポケットに入れて歩きはじめる。氷河上でのビバーク時、最後に片方だけ残っていた妙子の手袋が、岩と岩の隙間に落ちた。泰史はなんとか拾わなければと、寒さや疲労で全身を震わせながら隙間に手を伸ばす。

「僕は妙子に対しては、いつもよりプラスアルファがんばる。それは、妻だからかもしれない。けれど、そんなに相手のことを深刻には考えていない。妙子だったらほっといても限界まで生きようとするだろう。そう、信頼している。限界までがんばって死んじゃうのだったらそれは仕方ない。それまでだ」

山野井泰史氏 ©文藝春秋

 泰史は当時をこう振り返る。10歩進んでは休む状態だった妙子が、氷が張った水の流れを見つけたとき、石を持ち上げてかち割り始めた。そんな元気は、泰史にすら残っていなかったのに、妙子はそのときばかりは力が出た。ここが妙子の強いところだ。底知れぬ強さをもっている。水を飲み、アルファ米の袋に水を入れ、胸のポケットに収めた。

 その姿を見て、「ああ、アルファ米を捨てずに持ってきてよかった、早く食べたい」と泰史は思った。けれど、妙子の体温はあまりにも低下していたのだろう。ご飯はできあがらなかった。じゃりじゃりのまま泰史は二口ほど食べた。妙子は胃が受け付けなかった。凍傷を負った手足の指は、黒くなり完全に炭化していた。