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 思いついたら即行動、それが植村さんである。あるとき、上京し、不動産屋に頼んで20軒ほどの物件を見て回ったが、どうにも気に入る店舗がない。せっかく銀座で店をやるなら1階の路面店が良かったのだ。

 しかし、そんな物件、簡単に見つかるはずもない。一緒に物件巡りをしていた不動産屋の若者に食い下がり、奇跡的に現在の店舗を見つけた。家主宛に自分の思いの丈をしたためた手紙などを不動産屋の若者に託してみたりして、最終的には、理想の店舗を見事に射止めたのだった。入居が決まったときには「裏にどんな(政治家などの)バックがいるんですか?」とさえ聞かれたという。そんなものはなく、本当にたった1人の徒手空拳での船出だったのだが。 

写真はイメージです ©iStock.com

「銀座フィルター」を突破する底力

 しかし、そうやって始めた銀座の店も当初は苦難の連続だった。客が来ないのである。娘さんが寝静まった自宅で高い家賃と人件費に悩み、毎日胃薬を飲んで泣いた。銀座の店で初めて迎えた彼女の誕生日は、鹿児島天文館でなら200本以上の蘭の鉢植えなどが届く盛大なものだったが、知り合いのピアニストの女性がカウンターに1人だけ座り、ピアノでハッピーバースデーを演奏してくれる寂しいものだった。

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 その日、娘の樹麗さんがピエロの変装をし、ヘリウムガスで声をかえてサプライズで訪れたことは、忘れがたい思い出として残っているという。

 何カ月も客のいない苦しい状況は、あるときを境に変化していった。地元の名門校ラサールの卒業生たちが鹿児島だけでなく東京、そして全国から訪れてくれるようになったのである。私が最初に店を訪れたのも、この頃だった。

 念願の銀座に店を構え、ようやく順調な日々を送り始めたように見えたが、そこに訪れたのがコロナ禍だったのである。銀座の他の店の例に漏れず、社会的地位のある(したがって高齢でもある)お客が多かった店は再び苦境に陥ることになった。