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 実際、家族も宮澤の泥酔ぶりには呆れていた。「酒乱」であることを認め、「あまりに普段とは違う姿勢が出る」と振り返っている。

 千鳥足と呼べるほどカワイイ酔態ぶりでないため、帰宅時のあまりのひどい姿に娘が怒って水をぶっかけたこともあるということからも家族の苦悩のほどが伺える。

 宮澤は典型的な官僚で「頭が切れ、アイデアを思いつくが決断できない」タイプだったとの指摘は多い。例えば公的資金注入による不良債権処理も思いついていたが、それを実行したのは宮澤退陣から8年後に首相になる小泉純一郎氏だ。宮澤は1993年の衆院選挙で敗北、自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。

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「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」

 衆議院議長や通商産業大臣を歴任した田村元はじめの宮澤評には頷かされる。

「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」。頭が良すぎるが故に人を見下し人望がなかったわけだから、何も気にせず、ナベチャンナベチャンといいながら、ぐでんぐでんになりながらも夜回りを受けていたら、人生は変わったのかもしれない。

 ちなみに、宮澤は文学にも造詣が深く、酔うと文学論も出た。同じく酒飲みの小林秀雄に師事していたが小林からは「君の文章は何を言いたいのかよくわからない」と指摘されたという。一般人には難解な小林の文章の方がよほどわからない気もするが、権威主義の宮澤は小林に心酔していたと娘は語っている。

 意外な武勇伝もあわせもつ。ニューリーダーと呼ばれ、首相候補として名前が挙がり始めた1984年、宮澤は暴漢に襲われる。当時の新聞によると「立正佼成会の庭野日敬会長が会見するとのウソで、宮沢氏を千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ本館三八六号室に呼び出した。犯人は宮沢氏が部屋に入るとナイフを首筋に突き付け脅迫メモを示し、「これを読め。おとなしくすれば殺さない」と脅したが、ナイフを取り払われ格闘になった」(「東京地裁で宮沢氏襲撃事件初公判」日本経済新聞1984年5月30日夕刊一五面)。

 宮澤は後ろからはがいじめにされ、さらに逃げようとしたところ、頭を灰皿で殴られ、全治3週間の傷を負う。犯人は裁判で「先生の力が強くて(格闘が)優勢になることはなかった」と振り返っているが、展開によっては死んでいてもおかしくない。

 宮澤は総理になれるか、なれないかは「なりたくてなれるものではない。電車に乗っているときに目の前の席が空けば座るようなもの」と後年語っているが、強運の持ち主でもあったのだろう。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。