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映画鑑賞から始まるスターリンの夜

 スターリンの夜は、まずクレムリン宮殿3階に設けられた映画室での映画鑑賞から始まる。刑事映画やギャング映画が好みだったというが、担当者はスターリンの機嫌を見極めて作品を選び上映しなければいけない。上機嫌のときは初見の映画を流し、機嫌が読めないときは安全牌と思われる作品を選ぶ。国内ではいかなる映画もスターリンの検閲を受けないと公開できなかった。

「たかが映画」と思われるかもしれないが、外国映画は逐一、通訳しなければいけなかったのでムチャクチャ大変な労力を伴った。映画担当責任者が2人続けて銃殺されたこともあるので、命がけだ。

 映画鑑賞は通常2本立てで、終わるのが午前2時頃だった。誰もが寝静まっている時間帯だが、スターリンの夜は終わらない。「これから予定はあるかね。諸君に時間があれば何か食べに行こう」と誘うのだ。

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 午前2時に予定のある者などいない。答えは一択だ。「はい、喜んで」。そこから一同は車に分乗し、スターリン邸の大食堂での宴となるが、これが平均6時間にも及ぶ。当然、終わった頃には、日が昇っているというよりも現代ならば出勤時間である。

 6時間も何を話すのかと思いきや、重要な政策決定や文学など話は多岐に及ぶ。重臣だったモロトフは、国の政治は「スターリンの食卓で決まった」と書いている。最終的にはただただ酔っ払いの群れがそこにいただけだが。

 ウォッカで乾杯を重ね飽きると、唐辛子入りウォッカやブランデーのボトルが登場した。スターリンも、戦後になると酒を控え始めたが、時には乱れることもあった。何よりも仲間たちに酒を飲ませ、ハメを外させることに喜びを感じた。例えば、気温当てゲームを提唱しながら、酒を勧め回った。正しい気温を言い当てられなかったら、誤差の温度の杯数(3度ならば3杯)のウォッカを飲まされた。独裁者なのに学生ノリであるが、実際、時に宴は学生の新歓コンパの様相を呈した。

 いい年をした重臣たちが肥満した身体を揺すってよろよろと部屋を駆け出して、嘔吐し、自分の衣服を汚し、最後にはボディーガードに担がれて帰宅する始末だった。スターリンはモロトフの酒の強さを賞賛したが、そのモロトフさえ泥酔した。ポスクリョーブィシェフ〔著者注・スターリンの私設秘書〕は必ずと言っていいほど吐いた。

 酒豪のフルシチョフはベリヤに負けずにスターリンの歓心を得ようとして、大量の酒を飲んだが、時にはあまりにも酔いすぎて、ベリヤの手で家まで送り届けられた。ベリヤはフルシチョフを家まで送り届け、ベッドに寝かしつけたが、フルシチョフはしばしば失禁してベッドを濡らした。

 ジダーノフとシチェルバコフはいったん飲み始めると自制できなくなった。シチェルバコフはアルコール依存症になり、それが原因で1945年5月に死亡する。ジダーノフもアルコール依存症になって苦しんだ。ブルガーニンも「事実上の依存症患者」だった。マレンコフはますます太った。(『スターリン││赤い皇帝と廷臣たち 下』)

 

失禁するほど飲んだフルシチョフ ©getty

 幸せな者は誰ひとりいない惨状だが、同志が悲惨になればなるほどスターリンは満足だったのだろう。そして、誰もがスターリンの歓心を買おうと子どもじみた酒宴を盛り上げようとした。