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 庭の池に酔った者を落としたり、ウォッカに塩を大量に入れ、それを飲み、あまりの辛さに吐く姿を楽しんだり、酔い潰れた者の背中にペニスの絵を描いた紙を貼り、起きて何も知らず動き回るのを笑いものにしたり。大学生よりも酷い。

 スターリン自身もトマトを人に投げつけたり、イスの上にトマトをこっそり置いてその上に誰かが座るのを楽しんだ。庭で飼っていた鳥を撃とうと、銃を持ったものの、ふらついて地面に発射し、危うく仲間を射殺しかけたこともあった。

 もちろん、「こんなの耐えられない」と誰もが考えるだろう。同志の何人かは給仕を買収して、酒の代わりに、色が付いた水を出すように作戦を練った。別の者はトイレに行った際に見つかりにくい小部屋で仮眠する術を覚えたが、いずれもスターリンに密告する者がいて、バレた。スターリンに内緒でみんなで手を結んで極力飲まない方法もあったが、バレることを恐れた。みんな、スターリンが怖かったのである。

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 スターリンの最期もそんな恐怖政治がもたらした面がある。

あまりにも情けないスターリンの最期

 1953年2月28日の夜、例によって重臣たちとクレムリンで映画を楽しみ(スターリン以外が楽しんだかはわからないが)、夜11時に食事をするために自宅に戻った。当時は朝鮮戦争中だったため、戦況の報告などを聞きながら、午前4時まで宴は続いた。かなり酔っていたが、非常に元気でフルシチョフの腹をふざけながら荒っぽく殴っていたというから、死ぬ間際まで学生ノリの飲み会は続いたわけだ。

 翌日、その日は日曜だった。午後になってもスターリンの寝室には何の動きもなかった。警護隊員たちは一様に不安になったが、どうしようもない。もし、寝ているところを起こして機嫌が悪ければ銃殺されかねない。そのようなリスクを冒して声をかける勇気を誰も持ちあわせていない。

「昨日、飲み過ぎていたし、寝ているのだろう」と静観していると午後6時くらいにスターリンがいると思われる部屋にようやく明かりが灯る。よかった、よかったと胸をなで下ろすが、1時間、2時間、3時間経っても動きはない。午後10時になりスターリン宛てに届いた書類を渡すという名目で部屋をのぞくと、床に倒れたスターリンの姿を見つけた。意識はあったが、身動きはとれなかった。高血圧と動脈硬化が悪化し、倒れたのである。血液凝固阻止剤を盛られたとの説もあるが、倒れたのを発見されてからもスターリンは医師も呼んでもらえず、失禁した尿で全身を濡らしながら12時間以上放置された。

 医師を呼ばなかったのは、連絡を受けた重臣たちがわざと放置したからとも言われている。と言うのも、スターリンは自身に引退勧告した医師を拷問にかけるくらいの医師嫌いで知られていた。スターリンの性格を考えると万が一、医師を呼んでいる最中に回復でもした際には自分たちがどのような罰を受けるかわからない。とは言え、このままだと死んでしまう。協議に協議を重ね、医師を呼んだが、有能な医師はみんなスターリンによって牢獄に入れられているからまともな医師は娑婆にはいない。そもそも呼んだところでスターリンが怖いから、医師が脈をはかるのもままならない。

 有効な治療策もなく、スターリンは3月5日に亡くなる。世界に影響を及ぼした為政者としては悲しい最期と言わざるをえない。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。