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 そういえばごく最近の村上の短編「一人称単数」では、村上本人とおぼしき登場人物の作家が、東京・青山のバーで本を読んでいる。女性客から「そういうのがしゃれている、都会的だと思っているの?」とこてんぱんにやっつけられる場面があって、笑った。時は、流れた。

 

村上春樹氏の短編「一人称単数」 ©文藝春秋

本読みの世界は閉じていない

 わたし自身も、喫茶店やバーはもちろん、定食屋でも居酒屋でも、病院、散髪屋、コインランドリー、ひとりでいる場所では、いつでも、どこでも、本を開いている。

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 九州は毎夏、どこかが必ず、豪雨と洪水被害にあう。わたしも新聞記者であるから、いちおう、取材はするのだ。ある夏、洪水被害にあった自治体の役場でずっと待機している役を仰せつかった。記者も、わたしくらいロートルになると現場に出されない。社会面をはなばなしく飾る記事は、若手や中堅、目下売り出し中の記者たちが書く。

 それはいいのだが、数日間は、午前6時から翌午前2時まで、ずっと市役所で待機する。緊急発表の警戒役をさせられるわけだ。

 そのとき、わたしは本を10冊ほど、持っていった。会見室の机に積み重ね、会見がないときはひたすら読んでいた。第章に書いた四種の課題読書である海外文学、日本文学、社会科学、詩集もあれば、英語の原書で読みかけだったキース・リチャーズの自伝もある。いちおう自然災害を取材しているので、いいわけのようにナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』があったりもする。それらを、15分ごとに次々読んでいる。

 これがいけなかった。悪目立ちした。他社の記者は遠巻きにしてだれも話しかけない。そりゃそうだろう。手があいている者はテレビニュースを見たり新聞を読んだり。スマホをいじり、原稿があるのかないのか知らないが、パソコンを操っている。わたしだけ、積み上げた本を次々に読んでいる。「何者だ、こいつは」である。

 それで「もてた」のかと言われれば、もちろん、ノーである。ただ、豪雨報道も収まり、紙面が日常を取り戻したら、他社の若者が、わたしの家に出入りし始めた。NHKの記者や地元民放のカメラマン、地方紙、ブロック紙の若手記者たちである。毎日のように数人が入り浸り、酒を飲み、めしを食い、わたしをかこんでいろんな話をねだるようになった。

 私塾の始まりだった。