ダイアナの死が報じられると、イギリス各地から無言の人々がロンドンに集まり、バッキンガム宮殿やケンジントン宮殿のゲートの前に花やキャンドル、カードを次々と手向けていった。人々は宮殿前からいつまでも去ろうとはせず、この「民衆の皇太子妃」のために涙を流し続けていた。
「あなたの哀悼を見せてください」
これを受けて新聞各紙(特にタブロイド紙)はロンドンから遠く800キロのかなたに閉じこもり続けている女王に対し、いっせいに非難を浴びせることになった。「あなたの国民は悲しんでいる。話しかけてください陛下!」(『ミラー』)、「あなたの哀悼を見せてください」(『エクスプレス』)。さらにマスメディアは、バッキンガム宮殿に追悼の半旗を掲げるべきだとも主張した。「われらが女王はいずこに? 彼女の旗はどこに?」(『サン』)、「宮殿に半旗を掲げよ!」(『デイリー・メール』)。
女王不在時にロンドンで政府やスペンサ家(ダイアナの実家)と連絡を取り合って対応に追われたのが、女王秘書官のサー・ロバート・フェローズだった。実は彼はダイアナの義兄にあたっていた。妻ジェーンがダイアナの実姉だったのである。その意味でもフェローズは王家とスペンサ家の仲立ちになれたし、ロンドンで実際に国民の多くの行動を見聞し、これは王室も何か手を打たなければならないとひしひしと感じるようになっていた。
130年前の「姿を見せない女王」
「姿を見せない女王」。実はそのような人物がこれより130年ほど前にもう一人いた。女王の高祖母ヴィクトリア女王である。1861年12月に最愛の夫アルバートに先立たれたヴィクトリアは、以後、ロンドンやウィンザーに姿を見せることは稀となり、バルモラル城やイングランド南部のワイト島に建つオズボーンの別邸でその一年の大半を過ごすようになった。いずれもアルバート自身の設計になる、アルバートとの思い出がいっぱい詰まった建物だった。しかしそれが国民に誤解を与え、「女王は責務を果たしていない」「もう女王などいらない」と、1860年代末には俗に「共和制運動」と呼ばれる反君主制の動きがイギリス全土で見られることになった。