やがてヴィクトリアは「国民に姿を見せることも君主の責務のひとつなのだ」と悟り、1870年代初めまでにはロンドンやウィンザーでも執務を行い、君主制は存続できた。まさにこのときバルモラルに閉じこもり、下界から切り離されていたヴィクトリアの姿は、1997年夏のエリザベスのそれと同じであった。女王もこのままでは国民から誤解され、君主制の危機にまで発展してしまう。
事件が与えた教訓
実は女王自身も国民を誤解していた。いまの国民は20年前に彼女の在位25周年記念を盛大に祝ったときとは、大きく異なっていたのだ。式典の2年後に首相に就任し、イギリス経済をどん底から救い出したサッチャー首相の数々の政策はたしかに見事なものだった。しかしそのサッチャリズムの代償が、貧富の格差をさらに拡げることにつながった。
「金融ビッグバン」の波に乗って、10万ポンド以上もの年収を稼ぐ若者もいれば、廃坑で職を失った炭坑夫も、この国には大勢いたのである。彼らは、サッチャリズムの恩恵から「置き去りにされた人々(レフト・ビハインド)」だった。
ダイアナのために宮殿に集まって花やカードを捧げた人々の大半は、失業者や中産階級以下の女性、子ども、そして海外から移住してきた非白人系の労働者たちだった。彼らはみな「置き去りにされた人々」であり、彼らから見ればダイアナもまた王室から「置き去りにされ」、自分たちと同じ境遇のなかで苦しみ、亡くなった悲運の人だった。
対する女王は、パブリックスクールの名門中の名門であるイートン校の出身者や、同じくジェントルマン階級の子弟である元近衛兵などの宮廷官僚たちに長い間囲まれて、いつしか民衆の心など見えなくなっていたのかもしれない。こうした世間一般とのズレが、「ダイアナ事件」での女王の対応が後手後手に回る最大の要因になっていたのである。
(後編に続く)