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 男女が同じ空間にはいるのですが、スペースの真ん中に境界線があって、こっちは女子、そっちは男子、と隔離されているんですね。話すことすら許されていなくて、女の子は赤ジャージ、男の子は青ジャージで過ごす、という管理的な生活でした。

――性虐待に遭った子への配慮であったり、あとは性的な被害を防いだりする目的で男女を分けているのでしょうか。

田中 大人の事情的にはそうだと思いますね。

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小学生時代の田中れいかさん(写真=本人提供)

入所から半年後に母親と再会

――親元を離れて過ごされるようになった当時、どのようなお気持ちでしたか。

田中 しばらくずっと泣いていたようです。でも自分を守るためか、親のことを思い出さないように気持ちに蓋をして過ごしました。小学生が多い施設だったので、みんなと遊びながら気を紛らわすというか、大事なものに蓋をして、という感覚でしたね。

 すごく辛いというより、お父さんがずっと怖かったので「お父さんと離れられるなら」みたいな思いは少なからずあったと思います。

――児童養護施設で生活されるようになってから、ご両親との面会はあったのでしょうか。

田中 はい。私たちの希望は「お母さんに会いたい」というものだったので、入所から半年後くらいには会うことができました。これは今でこそ分かることですが、親子交流って慎重に進めているようなんです。施設の職員と児童相談所の職員が「この親子は交流できる状態なのか」をよく話しあうみたいで。

 そのおかげで私たちは毎月1回、きょうだい3人でお母さんと1日過ごせるようになりました。場所はいつも池袋サンシャインでしたね。

 お父さんには、やはり怖いイメージがずっとあったので「会いたくない」と希望を伝えていました。職員さんから毎年「会いたい?」と聞かれるのですが、その度に「やだ」と。

児童養護施設の公園で遊ぶ小学生時代の田中れいかさん(写真=本人提供)

次第に父親への印象に変化が

――お父様と会うようになったのはいつ頃でしたか?

田中 中学1年生くらいの頃でした。そろそろ会ってもいいかな、という気持ちになったので、「職員が同席なら」という条件付きで、お父さんと会議室で机越しに話をしました。それからお父さんとは4年に1度、お母さんとは毎月1回の外出と、夏休み、冬休みに外泊する交流が続きました。

――交流する中で、お父様に対する心境の変化はありましたか。

田中 ありました。お父さんはよく手紙をくれる人で、面会をしていなかった間、私の誕生日にミッキーやミニー、キティちゃんの人形とセットになった電報をくれたりして。子どもながらに「今年も来た!」とわくわくしたのを覚えています。

 会うのはまだ怖いけど「うれしい」というのはあって。だからこそ次第に「会おうかな」という心境になったのだと思います。

――実際に会ってみて、どうでしたか。