テレビ放送が始まって70年。3月21日に放送されたNHKスペシャル「テレビとはあついものなり~放送70年 TV創世記」は大好評を博し、5月7日にBSで特別版が再放送されることに。タイトルの「テレビとはあついものなり」は、主人公、宮田輝アナウンサーのメモに残っていた言葉。草創期のスタジオの照明はそれだけ熱かった。

 この貴重なメモを宮田家で発見したのは、後輩の現役アナウンサー、古谷敏郎氏。そのようすは古谷氏の著書『評伝 宮田輝』(文藝春秋)に詳しく書かれている。ここでは本書を一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/続きを読む

昭和20 年代後半のラジオ風景。左側のチャイムを自ら叩いて番組の区切りを知らせた。

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 昭和20年の敗戦を機に放送の内容も大きく変わった。アメリカを主とする占領軍は日本の民主化を推進したが、そのために放送というメディアをフルに活用した。

 それまでの放送は、アナウンサーが一方的に情報を伝えていた。しかし、アメリカが求めてきたのは、公開放送による参加感だった。一般の人々に放送に登場してもらい、それぞれの思いや意見を発表してもらおうというのだ。

 そして生まれたのが「街頭録音」であり「のど自慢素人音楽会」だった。しかし、いきなりマイクに向かって自分の意見を言ったり歌ったりしろと言われても、たやすいことではない。

 輝さんも「街頭録音」を担当したことがある。そのときのことを、のちに女優高峰秀子との対談の中で語っている。

「戦後すぐは、街頭へ出ても、しゃべる人はごくわずかでね、公の場所で、自分の意見をしゃべるって習慣もなかったし。ぼくも浅草の六区の真ん中で街頭録音をやりましたがね。質問したら「ここじゃムリだよ」っていうんです。「あっちの車の中でやらしてくれ」って。しかたないから、車の中で意見をうかがったことがありました」(「潮」昭和46年12月号)

「のど自慢」は宮田輝さんの登場によって人気番組として定着していった。

 大変革期の東京で輝さんはどんなアナウンサー生活を送っていたのか。この頃の輝さんの真骨頂は、放送に対する独創的といってもいいチャレンジ精神にあった。民主化による放送スタイルの劇的な変化。東京という大舞台への登場。さらにアナウンサーになって5年目の勢いに乗った自信が、輝さんの背中を力強く押していくことになる。

初の野球中継で「新機軸をやりたかった」

 昭和20年代、男性アナウンサーが復員せず、スポーツ実況アナウンサーが不足していた時期がある。そんな時代だから、本来スポーツを専門としないアナウンサーも現場に駆り出されることがあった。昭和21年、輝さんも野球実況を経験している。