テレビとはあついものなり
《テレビとはあついものなり。
町中の写真館のスタジオのようなところで
まぶしいあかり(照明)はあつくてしようがなかった。
紺の洋服が羊かん色になり
眼を悪くする出演者がいたり
アコーディオンのキイがはがれたり
ヴァイオリン、三味線の調子が狂ったり
ライトにはなやまされた。
が、もののはじまりはこんなものかと思ったものだ。
演出者も、技術者も、出演者も
みんなでつくったテレビジョン番組だ。「家内工業」の番組づくり。
全部で10人か20人の研究要員だから
セクションなんかない感じで
みんなで工夫してぶつかった。
技研の前に一件食堂があった
そこへ行くといつでも誰かがいて「カツ丼」なんかを
食べていた。みんな同じ釜のめしを食っていたのだ。
そとへ出た「元禄花見おどり」
技研のスタジオを出ると桜並木で番組
満開の桜花のもと「花見おどり」を放送した。
いまでこそ何でもないことだがはじめてのスタジオ外の放送だった。
ST内ではたとえば照明がなければうつらないTVだが
そとではどんどんうつる。
全国のいろんなところから
カメラで茶の間に届けたい。願望がわく。
「ふるさと」からの気持ち。
地方→中央への文化の流れをつくろう!》
スタッフみんなが力を合わせ、スタジオを飛び出して、参加型の中継番組をつくること。それこそが、テレビ放送の最大の強みであり魅力だと、輝さんはこのとき実感したのだろう。
3年後の昭和28年、テレビは本格的な放送を開始する。やがてそこを舞台に、輝さんの夢は多くの仲間たちを巻き込んで、大きく羽ばたいていくのである。
写真=日本放送協会、宮田家、文藝春秋写真資料室