文春オンライン
「テレビとはあついものなり」と…昭和を代表するアナウンサー・宮田輝が見た“テレビ放送が始まるまで”《放送70年》

「テレビとはあついものなり」と…昭和を代表するアナウンサー・宮田輝が見た“テレビ放送が始まるまで”《放送70年》

『評伝 宮田輝』#1

2023/05/07

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, テレビ・ラジオ, 昭和史, メディア, 読書

note

斬新だった「20分間の海中リポート」

 この番組が斬新だったのは冒頭のアナウンスだけではない。戦後、荒れ果てた日本が力強く復興していく様子を伝えるのがねらいだったこの番組の中で、ときには輝さんは現場を訪れ、身体を張って取材し伝えた。

 当時、日本の重要産業だった炭鉱の現場では、自ら炭車に乗って坑道の奥深くに入った。特に印象深かったのは、沈没船を回収するサルベージ船に乗ってなんと海中からリポートをした回だった。

 昭和25年の12月3日から7日にかけて広島県の江田島沖を訪ね、5日に録音をして8日には放送というハードスケジュールだった。その模様は雑誌「ホープ」昭和26年3月号の「水中インタビュー」、さらに「小説公園」27年11月号の「水中対談」で詳しく紹介されている。

ADVERTISEMENT

 昭和20年7月の空襲で攻撃を受けた戦艦榛名は、甲板の一部だけをまるで防波堤のように海面に突き出して、大部分は海中に沈んでいた。

 輝さんは重装備の潜水服に身を固め、潜水の専門家とともに潜って、のどに巻きつけた小型マイクとレシーバーの音声を頼りにやりとりをして録音するという趣向。エアーの出し入れにとまどって水が浸入しても、けして慌てぬ輝さん。

 その本領が発揮された20分間の海中リポートだった。

「産業の夕べ」昭和25-年広島県江田島沖にて沈没船を海中リポート

心が震えた「輝さんの走り書き」

 チャレンジ精神旺盛な輝さんにとって生涯忘れられない体験があった。昭和25年から始まったテレビの実験放送である。昭和5年、当時開所してまもないNHK技術研究所で始まったテレビ放送の研究がようやく実を結ぼうとしていた。

 輝さんは田辺正晴アナウンサーとともに、昭和25年11月から週2日、世田谷区砧のNHK技術研究所に通い、1日3時間の実験放送に参加した。

 当時の様子を、輝さんは便せんに走り書きをして残している。恵美さんの案内で輝さんの資料室に入り、これを目にしたときわたしは震えた。

 おそらくNHKを退職後に書いたと思われるそのメモは、現場で実際に取り組んだ者にしかわからない草創期のテレビ放送現場について、余すところなく伝えている。