「戦後に野球の放送を2日間やらせてもらったこともあります。21年だと思うんですが、巨人ー阪急といういまのオープン戦で、読売旗争奪戦というのが後楽園であったんです。その前に稽古はしていたんですけれども、野球放送というのはそのときが初めてだったんですよ。この放送が、お客さんからコテンパンにやられたんです。
当時のアナウンス課長の浅沼博さんのところへ、とにかくやたらに電話がかかってきて、あんなものは野球の放送じゃないから、早く引っこめろというんです。それをお前、おれは2日やらせてやったんだと、いまでもいわれるんですがね」
(何で失敗したんですか?)
「結局、若気の至りなんですけれども、やはり新機軸をやりたかったわけです。松内則三さんとか河西三省さん、当時はまだお若かったんですが志村正順さん、飯田次男さんなどの先輩が、野球放送というのを、確立されてきたわけですよ。その、投げました、打ちましたというのに、いささか反発を感じて。
生意気にいわせてもらえば、解説を織り込んだ放送をねらったんだと思うんです。もちろん、解説者がいる時代ではありません。アナウンサーが一人でやるんです。そういう気持ちもあったんですけれども、技これに伴わずで大失敗をしたんですが、それがうまくいけば、大スポーツアナウンサーになれたかと思いますが(笑)」(前出『人生学ぶこと多し』)
「絶叫調」アナウンスは賛否両論
昭和20年代前半は、輝さんにとって一つひとつの体験が、アナウンサーとしてのちに活きる血肉となった。そのひとつが「産業の夕べ」だ。
当時の占領軍の政策の一環として、国内各地の産業復興の様子をスタジオから紹介するというもので、華やかな音楽に乗せて開口一番「サンギョーノユーベ!」と輝さんが叫ぶという演出もまたアメリカふうであった。
そのために立ち上がって声を出したり、声の大小はもちろん、マイクの位置や身体の向き、またマイクにフィルターをかけてみたりと、さまざまな試行錯誤をしたらしい。
そうして生まれたアナウンスは「絶叫調」ともいわれ賛否両論だったらしいが、批判には慣れっ子の輝さんのことだから、
「「産業の夕べ」の一声は、登録商標とも云えるものである。(中略)これからも、アナウンスの工夫研究を精一杯やりたいと思う」(「放送文化」昭和25年11月号)
と意気さかんだが、それから24年後の昭和49年に出版された『故郷の心』の中では、
「すべてナマ放送だが、ろくなものを食べていないから伴奏のオーケストラが腹に響く、元気のいいアナウンスなどとてもできっこない。でもテレビと違って姿は見られない。頭に手拭の鉢巻をきりりとしめて、なりふりかまわず、まるで叫ぶような調子だった」
と当時の舞台裏をふりかえっている。