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モリス・チャンに訪れた転機

 モリス・チャンに転機が訪れたのは1985年、54歳のときだった。台湾当局から、「世界に通じる半導体産業を台湾につくり出して欲しい」と要請されたのだ。モリス・チャンは「願ってもないことだ」と、台湾工業技術研究院の院長に就任する。

 1985年といえば、半導体業界では、日本の電機メーカーがDRAMを生産して売上高シェアで米国を追い越し、世界を席巻していた時代である。しかし台湾には、小さな町工場の部品メーカーしかなかった。何をどうすればいいのか、モリス・チャンは悩みに悩んだ。

 当初、台湾当局は、日本企業のような、設計から生産までをすべて1社で行う垂直統合型の半導体メーカーの立ち上げを期待していた。しかし、台湾には設計技術がないため、モリス・チャンの考えは、生産だけを請け負うファウンドリーに収束して行く。この背景には、米国のTI時代に、IBM用のトランジスタの受託生産で成功した実績があったものと推察される。

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逆風の中での創業

 台湾で、受託生産のファウンドリーを立ち上げる──。

 しかし、モリス・チャンのこの構想には、反対意見が続出した。半導体工場の建設には多額の資金を投資しなければならない。その工場で、どこか別の会社の半導体を生産するなど、世界中の誰も考えないような奇想天外な着想だったからだ。

 出資を頼んだ大企業からは軒並み断られた。米インテルの創業者からは、「君は良いアイデアを持っているが、今回は良くないね」と言われた。日本企業にも多数打診した。その中にはソニーや三菱電機が入っていた。しかし、興味を示したところは一切なかった。

 逆風の中で、モリス・チャンは1987年にTSMCを創業した。数年間はほとんど売り上げがなかったという。技術が劣るとみられて、大手企業のおこぼれのような仕事しか取れなかったからだ。

 筆者は奇しくもTSMC創業の年と同じ1987年に日立製作所に入社し、半導体技術者になった。TSMCの存在を知ったのは、1995年にDRAM工場に異動した頃だったと思う。そして、台湾の技術を下の下に見て、あんな技術で受託生産のファウンドリーが成功するはずがないと思っていた。これは筆者だけでなく、日立全体、日本の半導体産業関係者の全体がそのように見下していたのである。