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松尾芭蕉の“最終地点”だった「大垣」

 本町と呼ばれるいかにも昔からの中心地らしいゾーンにも、商店街が南北に延びる。まあこれはいたしかたないところで、どちらかというとシャッター街の趣が強い。

 

 買物となれば駅の北にはアクアウォーク大垣があるし、東に行けばイオンタウン大垣もある。町中の商店街が苦戦するのはどこの地方都市でも共通だ。駅前の通り沿いには、かつてふたつの百貨店があったが、いずれも姿を消している。

 本町の商店街からさらに南に少し進んだところには、東西に美濃路が通る。松尾芭蕉が『奥の細道』の旅をしたときに、その最終地点が大垣だったという。

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 芭蕉も歩いた美濃路の跡。だからどうしたという気がしなくもないが、こうしたところからも大垣という町が侮れない存在感を持っていたことが伝わってくる。

洪水で悩まされてきたこの町に1884年、駅がやってきた

 内陸にありながら、揖斐川のおかげで川湊の商都として栄えた大垣の町。鉄道がやってくる直前の1883年には、揖斐川を辿って大垣と桑名を結ぶ蒸気船も就航したという。が、もちろん揖斐川は恵みももたらしてきた反面、たびたびの洪水で町を苦しめることもある、表裏一体の存在だった。

 大垣城の天守の石垣には、1896年の水害での浸水ラインが記録されている。町のほとんどが軒上浸水し、天守だけがぽつんと浮かぶ、そんな有様だったという。

 その後も1959年の伊勢湾台風、1976年の台風17号など、町中が水に浸かった洪水は何度も経験している。駅前には1976年の浸水深を示す表示も建つ。

 

 大垣駅が開業したのは、1884年のことだ。いまの感覚では東から、つまり名古屋・岐阜から線路が延びてきたのだと思ってしまうが、実際は反対の関ケ原方面からやってきた。

 前年に琵琶湖畔の長浜から関ケ原まで線路が達し、その折に当時の井上勝鉄道局長が「関ケ原は山間の小村に過ぎず、一刻も早く大垣に線路を延ばして水路と接続、水陸連絡で敦賀・四日市を連絡すべき」と提唱して大垣までの延伸を果たした。ここからも、舟運の町・大垣の存在感の大きさがうかがえる。

 ちなみに、岐阜駅は大垣駅からさらに東に延伸して1887年に開業したもので、県都にあっても大垣よりも歴史が浅い(たった3年ですけどね)。