なぜこの場所が歴史的な“あらゆる事件”の舞台になったのか?
天下分け目の関ケ原にほど近い大垣城は、戦国時代に築かれた城だ。西美濃の中心に位置し、西には関ケ原(越えれば近江)、東には岐阜、南に尾張という場所にあり、各勢力によって争奪戦が繰り広げられた。
関ケ原の戦いでは石田三成をはじめとする西軍が本拠地とし、戦後は東軍に攻められて落城している。大垣の市街地の西を流れる杭瀬川では、関ケ原の前哨戦もあった。日本で2番目に広い濃尾平野は、織田信長にはじまり戦国から安土桃山時代にかけて、あらゆる事件の舞台になった日本の中心だったのだ。
江戸時代の大垣城は、譜代大名戸田氏の居城となって幕末まで続く。城の周りにはいくつもの小河川が流れ、お堀代わりとして、そして運河として地域経済の支えにもなった。
市街地の南部にあった船町は、尾張藩の揖斐川三湊を上回る賑わいを見せるようになり、西美濃の中心都市としての地位を確立したという。鉄道の要衝になっている大垣は、その地理的条件から戦乱の時代には周辺勢力のターゲットになり、平和な時代には商業都市に上り詰めたのだ。
ちなみに、中山道は北側を素通りしていたが、名古屋と中山道をつなぐ美濃路が町の真ん中を貫いた。その道筋を歩くと、どことなく昔ながらの雰囲気が漂う。大垣の歴史は、そういう形でいまに息づいている。
もう少し町を歩く。小川に沿って歩いて行くと…
もう少し大垣の町を歩く。大垣城の天守閣は明治に入っても壊されずにそのまま残り、1936年には国宝にも指定されている。
しかし、大垣空襲で焼失してしまい、いまの天守は1959年に再建されたものだ。お城の跡は公園になっていて、子どもたちの遊び声が響きわたる。
その裏側には、官公庁などが集まるエリアがあって、さらに西に向かうと水門川が流れる。件の船町は、水門川の川湊。大垣の町を支えてきた小川だ。
水門川に沿って歩くと、お城を取り囲むように曲がって曲がって、また再び駅前からの大通りに出る。川に沿って大通りを渡って、東に向かう。
大垣城下、町人たちで賑わった町の中心はお城から大通りを挟んで東側。戦後の商店街の面影はいまもこの一角に残る。小さいながらも歓楽街ゾーンもあって、スナックが集まる雑居ビルなどは夜に町の人々が集うのだろうか。観光客を呼び寄せるような歓楽街とは違い、いかにも地域に根付いた飲み屋街だ。