松本のボケは「誰も笑わないですよ」
漫才コンビには、別々の仕事が増えるにしたがい、解散にいたるケースも少なくない。とりわけ、1980年前後の漫才ブームで台頭したコンビには、ブーム後は解散にいたらないまでも個人での活動がメインになっていったパターンが目立つ。そうしたコンビの場合、漫才で主導権を握っていたのは、ビートたけししかり、島田紳助しかり、もっぱらボケ役のほうで、独り立ちしたあとで第一線に残ったのもことごとくこちらであった。
それだけに、漫才ブーム以降しばらくは、一般的にもツッコミを軽視する空気があった。吉本のダウンタウンの後輩である博多大吉も、90年代初めに博多華丸とコンビを組んでツッコミ役になったとき、それほどお笑い好きでもなかった姉から、仕事がなくなるのではないかと言われたという(NHK総合『笑いの正体 chapter3 ツッコミ芸人の時代』2022年12月28日放送)。
大吉いわく、浜田はそこへ現れた一筋の光明であった。そのころ、ダウンタウンは関西から東京に進出し、全国区になり始めていた。浜田はネタのなかで、松本のボケを喧嘩腰ともいえる強いツッコミで一つひとつ丁寧に受け止め、見ている人たちに「いまこういうことやんな」「こいつおかしいこと言ってるよね」と示すような形で進行していく。そうしたツッコミのスタイルが大吉には新鮮に映ったという。
浜田自身、かつてインタビューで《僕の仕事は、あいつが思てることをできるだけ分かりやすく語っていた短い言葉でツッコんでやるという作業。じゃないと、誰も笑わないですよ。すごすぎて。僕にしか分からないこと言いよるから》と語っていた(『CREA』1995年1月号)。
暴力的なツッコミの技術
もっとも、浜田とてそうしたツッコミの技術を一朝一夕に身につけたわけではない。コンビ結成当初はとくに役割分担はなかったが、ひと月もやっているうちに、自分の口調はボケではないと気づく。そして松本の見た目、しゃべり方、センスを考えれば、やはり彼がボケで、自分が完璧にツッコミをやるほうがより面白くなると思い、そちらに回ると決めたという(浜田雅功『読め!』光文社文庫)。
そのためには一から勉強をしなければならなかった。劇場で先輩たちが漫才を演じているときも、中田ボタン(相方は中田カウス)や上方よしお(同・西川のりお)らツッコミ役だけをひたすら舞台袖から見て、ツッコミのタイミングや間の入れ方を学んだ。