極上の阿片(アヘン)が一人の女によって持ちこまれる。芳(かぐわ)しい香水のごとき体臭をまとう女は、熱河(ねっか)産の阿片と芥子(けし)の種を売りさばきたいと願う。話を持ちかけられたのは故郷を捨てて大陸に渡った日本人・吾郷次郎(あごうじろう)。彼はこの地の裏社会を牛耳る“青幇(チンパン)”に接触し、やがて阿片栽培と流通ビジネスに乗りだしていく。
舞台は上海、時代は1930年代半ば。東洋のパリと称された都市には外国人居留地が広がり、夜になれば退廃と悪徳があやしい輝きを放つ。艶(えん)なるジャズの旋律が響くなかで、犯罪や抗争によってなんの尊厳も守られぬまま、人が死ぬ――導入からもお察しのとおり本作はノワールだ。同系統の映画や小説のファンには大好物となるはずの(かく言う僕がそうだ)、『ナルコス』や『ブレイキング・バッド』、エルロイやウィンズロウの系譜に連なる犯罪小説。裏切りと友情、謀略、成功と凋落(ちょうらく)、権力闘争、運命の女(ファム・ファタル)、近親殺人――それらが過不足なく高純度で配された、贅沢(ぜいたく)な暗黒街ビュッフェ、オールド・シャンハイの濃闇が阿片の煙で揺れるスモーキー・ノワールなのである。
これはたまらない。
僕は声高に言いたい。こうした物語でしか得られない魂の栄養素というものが、確実にあるのだ。
作者の上田早夕里はSF系の著作で注目を集めてきたが、同時代の上海を舞台に『破滅の王』で医療・戦争小説を、『ヘーゼルの密書』で日中和平交渉をめぐる政治小説を描いて近現代小説の書き手としても評価されている。高学歴で志に燃え、理想のために捨て身で奮闘する前2作の主役と異なり、本作に出てくるのは飢渇や欲望を隠さない悪徳の見本市のような人物群だ。だが小説の魅力とは何か? 未知の物語に浸ること。優れて肉体的な文章の肌触りにふれ、この世の裏側の、語られざる感情を追体験すること。それは阿片で得られる鎮痛や陶酔ともニアリー・イコールだ。だからこそ本作は稀(まれ)なる蠱惑(こわく)の強度を保ち得ている。
煙の向こうには人種や差別、民族とその分極化といった現代的なテーマも透けて見える。吾郷にしてからが国籍やアイデンティティの軛(くびき)にあらがい、かつて差別を受けた人物は帝国主義・排斥主義に呑まれていく。我々の生きるこの国の現実とも相似形だ。経済成長やバブル期の狂騒を、近年の大型スポーツイベントやその後の疑獄事件の腐臭を思うだけでも、かつての魔都とおなじ手触りを直に知ることができる。凋衰(ちょうすい)のプロセスにあるこの国で、はたして本作のような魂を酔わせる至極の物語が見出せるだろうか?
我々も皆、滅びの予感のなかで輝きや香りに引き寄せられていく蛾の群れだ。
巻を措(お)くあたわず。作者の灯した幻燈(げんとう)のような物語を読み耽り、そのあまりの実力の高さにひたすら圧倒されてしまった。
うえださゆり/1964年、兵庫県生まれ。2003年『火星ダーク・バラード』で小松左京賞を受賞し、デビュー。11年『華竜の宮』で日本SF大賞を受賞。18年『破滅の王』で直木賞候補となる。『夢みる葦笛』『播磨国妖綺譚』『獣たちの海』など著書多数。
しんどうじゅんじょう/1977年生まれ。作家。『宝島』で山田風太郎賞、直木賞を受賞。著書に『ものがたりの賊』『われらの世紀』など。