〈これからの一年を、わたしたちはあまさず暮らそう〉
父に残された時間はあと1年と宣告された34歳の春野と、5歳年下の妹の澄香は、そう約束する。父と姉妹は、来たるべき喪失の日に向けて、日々を丁寧に生きていく。
野々井透さんが表題作で太宰治賞を受賞し、三島由紀夫賞の候補作に選ばれた『棕櫚(しゅろ)を燃やす』。表題作で描いたのは、「生活すること」だった。
「余命1年と区切ることで、死ぬとは、生きるとはどういうことか、日頃は意識しないことを鮮明にしたいと」
父の病名が明かされることはない。ただ、〈父の左腰の内側で、なにかが蠢(うごめ)いている〉と春野は感じる。
「闘病記はたくさんありますが、小説で何ができるか。ありきたりの言葉で言い表してもつまらない。すでにある言葉を使わずに、どこまで伝えられるか、自らに課して書きました」
春野は交際した相手に、家族を作ろうと言われたことを受け容れられず、父と妹の家に戻った。他人にかわいそうな家族だと思われたくない、私たちが悲しまないといけないなんておかしい。〈誰かが誰かの幸せの形を決めるのって横暴だ〉。
「春野は、社会での居づらさや人付き合いがうまくできないことを自覚している。彼女の目を通して、様々な疑問を表現できました。家族はこうあるべきだと枠にはめることへの抵抗です」
春野にとって家族3人で暮らす東京の一軒家は居心地のよい空間だ。彼女の支えは、「さもありなん」とたいていのことは受け流してくれる父だった。だが、病を患い次第に変わっていく父に違和感を抱く。〈体温に似たぬるい温度のむるむるが私のからだを回り始め、それ以上そのひとと向き合うことが面倒になる〉。
「たぶん3人でしか生きていけないのに、そのうちのひとりが欠けてしまったら、どうなるのか。春野だけの不安や怯えをどう表現するか考えて、〈むるむる〉という擬態語としました」
不穏な病とは対極をなすかのように、日常は淡々と過ぎてゆく。とりわけ丁寧に生き生きと描かれるのが食事の場面だ。3人で遠出して、簗(やな)で食べた天然の鮎。山菜の天ぷら、鰆の味噌漬け焼き、すき焼き。食卓を囲む喜びがそこにある。
「家族を成り立たせているもの、それは同じものを食べ続けることだと思います。四季折々の食材の彩りは、つまり1年という時の流れでもあります」
妹は3人を土鍋みたいだという。土鍋は割れないように、いいひびを作り、手入れをしながら使わないとならない。永く一緒にいられるように――。そんな祈りが生活の一部に重なる。
本書には、書き下ろし中編「らくだの掌」も収録されている。コロナ禍での執筆は、再び人との接し方について向き合わせた。
「コロナ禍は特殊な時期でした。たとえ困っている人、倒れている人がいても近寄らないし、逃げていた。その頃に読み直したのが坂口安吾の『白痴』。戦時下に時勢に流され、他人と距離をとる人々を描きますが、そんな不穏さがいまに通じるのではと。血の繋がった家族の濃密で狭い関係とは異なる、すれ違ったときにちょっと挨拶をするだけの関係を突き詰めてみました」
8歳の頃から小説を書いてきたが、多くの人に読まれる機会を与えられたことに、「恐怖を覚えた」という。
「何気なく使った言葉が誰かを傷つけるのではないか、自分自身に嘘をついていないか。小説に真摯に向き合っていきたいと思います」
ののいとう/1979年、東京都生まれ。2022年、「棕櫚を燃やす」で第38回太宰治賞を受賞した。23年、同作は第36回三島由紀夫賞候補となった。