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「スケボーするほど視力が落ちる」「だんだんとクラスの輪に入れなくなり孤立して…」高校生で全盲になったスケーター(23)が、それでもスケボーを続けた理由

ブラインドスケーター大内龍成さんインタビュー#1

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ちゃんと病気を自覚し始めたのは、小学校高学年くらい

大内 それが先生になんて言われたのか全く覚えていないんです。なんで病院に連れていかれたのかもよくわかっていなかったですね。ただ、親が泣いていたのは鮮明に覚えています。僕はお母さん大好きっ子なので、「母を泣かすなんて! 医者がひどいことを言ったに違いない」と医師に怒りを向けていました。

 小学校3年生の時に、父がお風呂で、「もしかしたら龍成は今後目が見えなくなるかもしれないんだ」と僕に伝えたみたいです。当時のことも全く覚えていないんですが、動揺してお風呂から出て近所の人がびっくりするくらい叫び回っていたと聞きました。

 ちゃんと病気を自覚し始めたのは、小学校高学年くらいだったと思います。僕の病気は、徐々に視野が奪われていくもので。昨日より明日、明日より明後日と、見えなくなっていくんです。だから自分でもなんとなく見えづらいというのは感じていました。

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みんなとのギャップは自分なりのやり方で克服

ーー大内さんの病気は人によって進行のスピードや見え方が全然違うんですよね。

大内 そうですね。1ヶ月後にどのくらい見えなくなっているのかわからないんです。その頃は周りの友達と自分を比べて卑屈になっていました。

 小学校からずっと剣道をしていたんですけど、最初の頃は試合で勝ったりとそれなりに結果を残していたんです。でも視野が狭くなってきて、だんだんと試合で勝てなくなってしまって。道場の先生には見えにくい分、たくさん稽古をつけてもらったんですが、試合に勝てない自分を情けなく感じて。

 もうやめようかなと思っていたんですけど、その時に「いや、俺なりのやり方で勝てる方法を見つけよう」と、考え方を方向転換してみたんです。目は見にくいけど、自分には音があるなって。

 相手のすり足を聞いて相手の動きを見極めたらいいんじゃないかって思って。それで音をよく聞きながら練習したら意外と勝てるようになったんです。みんなとのギャップは自分なりのやり方で埋められるかもしれないなって思いましたね。

ーー中学校は地元の公立中学校に進学されたんですよね。

大内 当時はそれでもまだ見えていたので、特別支援学校ではなく公立校に通いました。年に2回、精密検査をするんですけど、中学校入学時は医師から「前より少し見えづらくなっているけど、運転免許はまだ取れるくらいの視野が残っているよ」と言われていたくらいなので。僕は昔から車が好きで、将来はGTRに乗るのが夢だったんです。

「なんだ、まだ俺、車乗れるじゃん。早く免許取りてーな」って嬉しく思ったのを覚えていますね。

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