平日は鍼灸師として、休日はブラインドスケーターとして活動している大内龍成さん(23)。小学校1年生の時に「網膜色素変性症」と診断され、高校2年生で視野の95%を失った。
視力を失ってからは白杖を使いスケートボードをするブラインドスケーターとして活動し、SNSで話題に。そんな大内さんに視力を失うまでの経緯、サポートしてくれた家族への思い、スケートボードを続ける理由などについて話を聞いた。(全2回の2回目/最初から読む)
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白杖を使って夜な夜な練習を
ーー大内さんが白杖を使い始めたのは高校生の時でしょうか。
大内 高校2年生の時にもう白杖がないと無理だと思って、使い始めました。いわゆる「障がい者」になったんだなって思いましたね。
大好きだったスケートボードは徐々にできる技も減っていって。このままじゃ無理かもって思っていたけど、ちょうどその頃、アメリカで白杖を使ってスケボーするブラインドスケーターがバズっていたんです。そのことを友達が教えてくれて、「お前もこれできるんじゃない?」って。それで夜な夜な白杖を使って練習をしていました。
完全に失明していない時から失明した時のことを考えて行動
ーー高校2年生の頃には視野の95%が失われていたとのことですが、当時の心境はいかがでしたか。
大内 目が見えなくなる怖さよりも家族に迷惑を掛けてしまっている辛さの方が大きくて。母は僕が小学校の頃から精神的な病にかかってしまったんですが、それも自分の病気のせいだと責任を感じていました。
夜に親が「龍成が……」って喧嘩している声を聞くと、俺の病気のせいで喧嘩しているんだなって申し訳ない気持ちになりましたね。急に見えなくなるわけではなく、徐々に見えなくなるので、自分としてはある程度覚悟していたんです。だから完全に失明していない時から失明した時のことを考えて動いていました。
でも、周りはそうじゃないじゃないですか。どんどん自分の子どもの目が見えなくなるって想像できないから僕なんかよりも辛いと思うんですよね。親を不安にさせないように、「俺はまだ自分でなんでもできるから」と強がって身の回りのことはなるべく自分でやるようにしていました。
本当にできない時は周りに頼るけど、なるべく自分でやってみようと思っていて。それがあったから今、一人暮らしもできているし、大体のことは自分でできているので親には感謝していますね。