高度経済成長のまっただ中、日本の音楽シーンの頂点に君臨した孤高のアイドルがいた。その男の名は、沢田研二。

 ここでは、ノンフィクション作家・島﨑今日子氏による評伝『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。“ショーケン”こと萩原健一が語っていた、ジュリーへの熱い想いとは――。(全2回の2回目/最初から読む

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 沢田が復活の狼煙を上げるのは、2008年の還暦ライブ「人間60年・ジュリー祭り」である。それまで彼は、「ジュリーのイメージを大切にしてほしい」という周囲の善意の忠告を必死で払いのけながら、限られた資金の中でセットを作り、有形無形のさまざまなものを捨てながら歌い続けた。それは、ジュリーが歌謡界に君臨したのとほぼ同じ時間だった。この葛藤した時間を自棄になることなく過ごせた理由は、どこにあるのか。

〈誰かひとり、あんたはすごい、といってくれる人を見つければ、それですべて事はすんでしまうよね。味方になってくれる人がいて、その人が自分にとっても、あ、この人ひとりでいいと思える人であれば、それでいいと思うんですよ〉(「メイプル」01年10月号)

沢田研二 ©文藝春秋

女優・田中裕子との再婚

 沢田研二が7歳年下の女優、田中裕子と、出雲大社で挙式したのは1989年11月12日だった。媒酌人は井上堯之夫妻。八百万の神が集まる社には3000人ものファンが集まって、「ジュリー!」と声をかけ、出会いから8年になる2人を祝福した。大きな犠牲を払った結婚である。後日、赤坂の全日空ホテルで行われた披露宴で、沢田側の主賓として挨拶に立った渡辺美佐は、「2人を心配していた晋に、今日のおめでたを見せたかった」と祝辞を述べた。

 披露宴に出席したひとりに、当時、渡辺音楽出版にいた町田充生がいる。町田はジュリーのプロモーション担当だったが、吉田建プロデュースのアルバム「彼は眠れない」では渡辺音楽出版側のプロデューサーを務めた。同時期に沢田がプロデュースした田中裕子のアルバム「都会の猫たち」でも、共にプロデューサーを務めている。

沢田研二・田中裕子夫妻の結婚式 ©文藝春秋

「そんな縁で、僕は裕子さん側の席に座ったんですね。ラジオ番組での出会いから2人を見てますが、とてもいい結婚式でした。今、僕は故郷の長崎に住んでいて、ジュリーがコンサートで来た時は、打ち上げに呼んでもらうこともあるのですが、途中で、沢田さんは『ちょっと、お母ちゃんに電話してくるわ』と携帯を持って立ち上がったりするんですよね。なんか微笑ましくて。今も、仲いいですよね」

映画での夫婦共演が話題に

 2人が結婚して10年目、99年の春に、私は「婦人公論」で沢田研二を取材している。映画「大阪物語」のプロモーションのためであった。市川準監督作品は、池脇千鶴の映画デビュー作であり、沢田と田中裕子が夫妻で夫婦漫才師を演じて話題になった作品だった。