1995年(105分)/松竹/4180円(税込)

 一話完結のテレビ時代劇の場合、毎回欠かさず上出来の脚本で撮れるとは限らない。

 前回述べたように小野田嘉幹(よしき)監督はテレビ時代劇で長く活躍したが、プロデューサーたちは特にそうした際に彼を頼った。完成度の高くない脚本でも、小野田なら見応えのある作品に仕上げたからだ。

 今回取り上げる劇場版『鬼平犯科帳』は、そんな小野田の演出力をうかがえる一本だ。

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 小野田が起用されたのは、テレビシリーズでメイン監督を務めてきたからというのもあるが、それだけではない。

『鬼平』の最大の魅力は、盗賊や密偵といったアウトローたちの人間模様にある。主人公の長谷川平蔵(中村吉右衛門)は、要所でそこに絡めばいい。ただ、それはテレビシリーズだからこそ。平蔵は必ず毎回出て物語を締めているのだから、たとえ出番が少なくとも毎週続けて観れば主人公として認識できるのだ。

 だが、映画はそうはいかない。一つの作品内のみで平蔵を主人公として認識させるためには、平蔵の活躍の場面を多くせざるをえなくなるからだ。そうなると、テレビシリーズで培われてきた、盗賊を物語の中心に据えた「必勝の作劇」が使えない。

 実際、本作の前半は密偵おまさ(梶芽衣子)の葛藤を描いた「狐火」が原作ではあるが、同じ原作を使ったテレビ版より平蔵の出番ははるかに増え、おまさのドラマは弱くなった。さらに後半は、盗賊になったかつての恋人(岩下志麻)との対峙を描いた「艶婦の毒」を原作としながら、放蕩息子との父子のドラマや関西の闇組織の元締め(藤田まこと)による平蔵暗殺計画まで交えたことで、ほぼ「平蔵劇場」と化している。

 また、池波正太郎の原作は短編の連作であるため、一作品だけでは映画にするには長さが足りない。そこで本作は複数の原作を組み合わせたのだが、それでは物語は散漫になるだけである。

 そのため名脚本家・野上龍雄の腕をもってしても、テレビシリーズに比べると物足りないドラマとなった。だからこその小野田登板なのだ。

 狙いは冒頭から明確だ。平蔵と盗賊一党との捕物が描かれるのだが、小野田は黒澤映画ばりに宿場町に猛烈な暴風を吹きすさばせることで、ド迫力の死闘として映し出した。テレビの方法論が使えないなら、逆にテレビではできなかったスケール感あるアクションで魅せようというのである。

 その後も、爆薬を使っての捕物、平蔵の息子による街中での大暴れ、広大な田園で泥まみれになりながらの刺客との一騎打ち――。インパクトある画(え)作りの数々が、ドラマの弱さをカバーしていた。