1966年(88分)/東映/3080円(税込)

 中島貞夫監督が亡くなった。

 個人的にも、本当にお世話になった。「東映京都の賑やかなりし頃に活躍した、最後の生え抜き監督」として頼りになる取材源であったのはもちろん、監督が実行委員長を務めた映画祭の運営を手伝わせていただいた際には多くの薫陶を頂戴した。時代劇に関するドキュメント映画を撮られた際は光栄にも、拙著の題名を冠してくださった。

 そこで、追悼と感謝の想いを込め、しばらく中島監督の作品を取り上げていきたい。まず今回は『893愚連隊』。

ADVERTISEMENT

 晩年こそ「京都の映画界の語り部」的な立場で、京都での映画作りの伝統や魅力を語り継ごうとしていたが、若手時代はそうではなかった。むしろ、京都的な手法に反逆的で、さまざまな野心的な試みに挑んでいたのだ。

 本作が、まさにそうだった。

 舞台は現代の京都。ジロー(松方弘樹)ら若者たちは愚連隊を結成。詐欺、売春、強盗――あらゆる手段を使いながら金を稼ぎ、のし上がろうとしていく様が描かれる。

 当時の京都での映画作りは、時代劇や任侠映画など、スタジオ撮影を中心に虚構空間を徹底して作り込んでいくところに最大の特徴があった。同じ東映でも、東京ではロケを多用してドキュメント調の現代劇を撮っていたのとは対極的だ。そして中島は、東京的な手法に傾倒していた。

 当時の東映京都では珍しくほぼ全編を通じて街中でのロケ撮影を敢行。荒々しいカメラワークとともに作り込みの世界は完全に排され、「今の京都」で躍動するジローたちが生々しく映し出される。

 主人公像も鮮烈だ。当時の京都産の時代劇や任侠映画の主人公は基本的に「世のため人のために戦うヒーロー」であった。が、本作は違う。ジローたちは倫理観など、どこ吹く風。欲望の赴くまま、気ままに犯罪に手を染めていく。そこも、東京で石井輝男や深作欣二監督の撮っていたギャング映画に通じる。

 役者たちの演技も、「反京都」なアプローチだ。ただ一人の戦中派である杉山を演じる天知茂が「京都的」な重々しさを見せる。だが、松方、荒木一郎、近藤正臣ら愚連隊の面々がそれをあざ笑うかのように飄々と演じるため、天知の重さがむしろ滑稽かのように映し出されるのだ。

 ただ、石井や深作なら、爆発的な大暴れを貫いて終わっていくところ。だが、中島はそうはさせていない。ひたすら燻ぶり続けたまま、終焉へと向かう。このどこか煮え切らない空しさこそ、後々に通じる中島作品の真骨頂なのだ。

 燃えそうで燃えることのできない青春群像を描かせて、中島貞夫の右に出る者はない。