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共依存の背景には女性たちの“絶望”が

 Cさんの異様なパワーは、なんの望みもない現実に対する生体維持の反応なのかもしれない。ひょっとして共依存と呼ばれる彼女たちの関係性は、そのような文脈によって解読されなければならないのではないだろうか。パワーの源泉は彼女たちの飢餓状態(精神的な)にあるのかもしれない。

 妻であり母である彼女たちが共依存と名づけられるとすれば、それは彼女たちの夫婦関係における裏切られ感、恨みといった負の感情、その背後に横たわる結婚生活に対する希望が打ち砕かれたことによる絶望を背景としなければならないと思う。それでもなお、たくましく生きていくために図らずしも無自覚に彼女たちが身につけてしまった技法、態度の集積として共依存を理解したい。

 それらをよく見れば、パターナリズムと酷似している。パターナリズムとは「相手が喜んでいようがいまいが、それがあなたのためになると言って受け入れさせていくコミュニケーションだ」と社会学者の宮台真司は述べている。これをコミュニケーションと見るか、支配と見るかだが、日本の企業、学校などあらゆるところに瀰漫しているコミュニケーションだったとしても、ひとたび家族の中でそうした働きかけが行われたとき、それは明らかに支配になるだろう。言われる対象は、必ず子どもなのだから。

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 共依存を非歴史的な文脈で心理学的にとらえるのではなく、近代家族のたどった帰結のひとつとしてとらえる必要があるだろう。妻として母として彼女たちが家族を生き抜くためには、子どもを支配するしかなかったこと、そんなひとつの必然として共依存をとらえれば、明らかにマイナスのラベルであるこの言葉が、それ以外に残されていなかった選択肢であることがわかるだろう。

 そう自覚されることで、おそらく別の選択肢もぼんやりと見えてくるかもしれない。しかしそれは彼女たちにとって残酷なことでもある。自覚することによって、初めて彼女たちが子どもに行使した支配の責任が浮かび上がるのだから。