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できて5年とは思えない駅前のにぎわい…「武蔵小杉」はなぜこんな駅になったのか?

 横須賀線の新南口は2018年に開設されたもので、たったの5年しか歴史がない。後付けの出入り口というわけだ。それでも周囲の発展ぶりを見れば5年程度の歴史とは思えない。行き交う人の数を見ても、別に数えたわけではないから正確なところは言えないが、どの駅前も大差ない。

 

 さらに余計なことを言うと、横須賀線の新南口は南武線の武蔵小杉駅より向河原駅の方が近い。NECの間を抜ければ10分はかからない。改札内乗り換えにはならないから運賃が余計にかかってしまう。

 だから日常使いはできないが、便利と言えば便利である。とにかく、ここまで来ると、どこからどこまでが武蔵小杉なのかがわからなくなってくる。新宿や渋谷だって似たようなものなのだが、それと比べてもまったく遜色がないほどに、武蔵小杉の駅は複雑なマンモスと化している。

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 武蔵小杉がこういう駅になったのはなぜなのか。タワマンが次々と建った再開発だとか、横須賀線のホームができたことなどいくつかきっかけはあるだろう。ただ、突き詰めていくと、そもそも武蔵小杉という駅がどのように形作られてきたかという点にすべてが発しているのではないかと思う。

「武蔵小杉」に“タワマンの森”ができる前、そこには…

 タワマンが建ち並ぶ武蔵小杉の町。それを明治時代に遡ると、その頃はまったく何もない田園地帯に過ぎなかった。多摩川がすぐ近くを流れていて、東京から神奈川に入ったばかりの何もない土地。そこから100年ちょっとの間に、武蔵小杉は発展の歴史を刻んできた。

 

 もちろん、本当にまったく何もなかったわけではない。多摩川を「丸子の渡し」で渡ってきた中原街道(東海道の脇街道)が、武蔵小杉エリアの北側を東西に走る。中原街道沿いにはいくらかの集落が発展していて、そこが「小杉」と呼ばれていた。

 つまり、武蔵小杉の原点は、発展著しい駅前ではなくて、すこし北西に離れた中原街道沿いだったのだ。江戸時代の初め頃、2代将軍の徳川秀忠が大御所・家康を迎えるための御殿を建てた場所でもあるという。そこから名前を頂いて、いまも「小杉御殿町」という地名が残っている。

 中原街道沿いを歩いてみると、確かにどことなく歴史を感じさせる。お寺の類いもあるし、いかにも古めかしい木造の建物もある。ちなみに、このゾーンを北に抜けると等々力競技場。川崎フロンターレのホームスタジアムである。

 小杉御殿町には小杉御殿団地という団地もある。もとをたどれば1956年に入居を開始した住宅公団の団地だったが、80年代に建て替えを行ってリニューアル。少なくとも戦後になると発展の足がかりを得ていたわけだが、鉄道が通っていなかった明治時代には、そんな未来など想像の遥か向こう側であった。

 武蔵小杉エリアに、はじめて鉄道が通ったのは大正末から昭和初期にかけて。まずは1926年に現在の東急線が開通。次いで1927年に南武線が通った。しかし、最初はどちらもいまの武蔵小杉駅の場所に駅を設けることはなかった。いくらふたつの路線が交わる交点とはいえ、何もない場所だったから駅を置く必然性がなかったのだろう。