1ページ目から読む
5/5ページ目

“工業地帯を支える町”が“タワマンと大型商業施設”へと変わった理由

 戦後になると、工業都市の後背地として発展に拍車がかかる。交点を中心として南西側には、小さな店舗が集中する駅前繁華街も形成された。新丸子から武蔵小杉の工業地帯に至るまで、都市として一体化していき、住宅地には工場で働く人が多く暮らす。そういう町であった。

 

 1960年代には、川崎市によって駅前繁華街一帯を再開発する計画もあったという。しかし、土地の所有形態が零細所有。つまり再開発にあたって整理しなければならない権利者が多すぎて複雑すぎて、そう簡単には手がつけられなかった。

 結局、高度経済成長期の武蔵小杉は、駅の形こそ完成したものの、工業地帯の後背地としての商業エリア・住宅地というような町という性質は変わらなかった。1950年代のサイクリング読本には、駅の向こうに法政の時計台が見えると書いてある。それくらい、見通しの良い町だったのである。

ADVERTISEMENT

 ようやくそれが変わりはじめたのは、平成に入ってからだ。武蔵小杉周辺の工場が次々と移転。その跡地が、タワマンや大型商業施設に生まれ変わっていったのだ。

 

 最初の例は、南武線の北側にある武蔵小杉タワープレイスで、1995年に完成した。本格化したのは00年代後半からで、武蔵小杉駅の南側を中心に、またたくまにタワマンの森が完成していった。これらのほとんどは、かつて工場だった場所に建つ。

「武蔵小杉」に残る“残り香”

 武蔵小杉駅周辺でいちばん最初に商業化が進んだ新丸子、ついで発展した駅西側のエリアは、いまも昔のままに取り残されている。権利関係が複雑という事情を今も引きずっているのかも知れない。

 

 しかし、こうして最近になって面目を一新した町にとっては、昔の“武蔵小杉駅前”を感じられるいささか込み入った商業ゾーンが残っているというのも、あながち悪いことでもないだろう。

 工業都市という、そこで働く人以外にはあまり関心の持たれない町。そこから、タワマンの町にほとんど間を置かずに生まれ変わり、たくさんの人が流入したのが武蔵小杉なのだ。

 

 そして、本来の「小杉」であった、武蔵小杉駅前から15分ほど離れた中原街道沿い。クルマの往来は多いが、どちらかというとタワマンの森・武蔵小杉からすれば別世界のような静かなエリアだ。武蔵小杉という町の歴史の重さは、この場所で考えるのがいちばんふさわしいのかも知れない。(#2に続く)

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。