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そしてやってきた2つの駅。名前は…

 それでも、南武線の開業から半年後には、「武蔵小杉」を名乗る駅がはじめて登場する。いまの武蔵小杉駅よりも西、府中街道と南武線が交わるあたりに設けられた。

 そしてもうひとつ、東急線との交点にはグラウンド前という駅ができた。駅の目の前に企業が福利厚生のために設けたグラウンドがあったから、その名がついた。いくら何もないといっても、川崎の工業地帯からそれほど離れているわけでもなく、鉄路が通ったわけで利用価値を見いだすことはできた。そのひとつがグラウンドだったのだろう。

 名前はどうあれ、駅ができたのだから発展の足がかりは得た。ただ、この頃はむしろ東急線新丸子駅付近を中心に開発が進んでいった。

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 計画的な開発というよりは駅の周りに商店や住宅が次々に増えていったというだけのことなのだろうが、この地域一体でいちばんの町は、新丸子駅付近。武蔵小杉駅と新丸子駅は東急線の高架沿いに500mも離れていない。事実上同じ町といっていい。

 

 いま、新丸子の駅の周りを歩くと、「武蔵小杉」でイメージされる町とはまったく違うことがよくわかる。

 

 駅そのものが各駅停車しか停まらないという事情もあるのだろうが、周囲には個人経営の店が中心に並ぶ、どちらかというと庶民派の町。改札を出てすぐのところにドトールコーヒーがあるというのも、個人的には実にありがたい。

 

 そして新丸子駅から武蔵小杉の原点である中原街道沿いの「小杉」に向かう道すがらも、背の低い住宅が密集しているような、そういうエリアになっている。

「グラウンド前駅」だった武蔵小杉に訪れた“変化”

 とはいえ、武蔵小杉駅はまだ「グラウンド前駅」。駅の前に企業のグラウンドがあれば、なかなか開発もままならない。そうした事情もあったのだろうが、いまの様相からはまったく想像もできないような風景が広がっていた。

 この頃はまだ川崎市ではなく中原町に属していた。当時の中原町の情勢をまとめた『中原町誌』には、南武線と東急線の駅が離れていて乗り換えが不便であること、グラウンド前駅は新丸子の都市部に近いから発展の可能性があるというようなことが書かれている。ちなみに、1930年のグラウンド前駅の乗車人員はわずか750人であった。

 そんな中でもいまに通じる発展の芽は芽吹いていた。1929年に東海道本線の貨物支線(品鶴線、いまの横須賀線)が通ったこともあって、周辺が一気に内陸工業地帯に様変わりしていったのだ。

 海沿いを中心にたくさんの工場があった川崎市。海沿いが飽和状態になって、線路が通じていた内陸の武蔵小杉エリアにまで広がっていったというのが正しいところだろうか。武蔵小杉一帯は、みるみるうちに大工業地帯となった。駅前のグラウンドは、そのままに。

 工場がいくつもできれば、とうぜんそこで働く人がいる。通勤する人たちのために、1939年には東急線に工業都市駅という駅が開業した。場所はいまの武蔵小杉駅より南側、府中街道との交点あたりだった。

 そして駅の周りも少しずつ賑わうようになっていき、住宅地や商業エリアなども形作られていった。1944年にグラウンド前駅が武蔵小杉駅に改称(旧武蔵小杉駅は廃止)、1945年には東急の武蔵小杉駅もできて、現在の形がいちおう完成している。