それからというものの、原田監督からどんなにきつい練習メニューを言い渡されても「しんどい」と思うことはなくなりました。もしも練習で「しんどいな」と思うような場面が出てきても、左打席で見た斉藤さんのボールを思い出すようにしていました。
野球ではよく「勝負には負けても、敗北から学ぶことを忘れてはならない」と言われますが、僕より圧倒的に上の実力だった斉藤さんの投球をこの目で見られたことは、後の僕の高校野球人生に大きな影響を与えてくれました。
3年間のうち1度は甲子園に出場したい――。
そう思いながら練習を重ね、2年秋の京都大会で優勝、近畿大会では準々決勝で奈良の郡山に1対2で惜敗しましたが、翌97年春のセンバツに晴れて出場することになりました。平安としては当時、17年ぶりのセンバツ出場ということで学校やOBを中心に盛り上がっていましたが、僕にとっては初めての甲子園。初めて行く憧れの聖地に、どんな場所なのかと期待に胸を膨らませていました。
初戦の相手は石川県の星稜。あの松井秀喜さんの母校であることも知っていましたし、僕たちが高校1年のときには夏の甲子園の準優勝に輝いた強豪です。僕は「やったろうじゃん」と気概に満ちていました。
きつく言われた「試合中に白い歯だけは見せるなよ」
いざマウンドに上がるとバックネット裏までの距離が近く感じました。お客さんの顔もよく見えたので、「思ったより緊張していないな」と冷静でいられました。
原田監督からは、試合前に「試合中に白い歯だけは見せるなよ」ときつく言われていました。「試合中の笑顔は、緊張感がなくなってミスにつながる」というのが理由で、「ゲームセットとなる最後の1球まで気を抜くな」と注意されていたのと同時に、「試合の勝ちが決まったときには、笑顔を見せてええぞ」と言われていました。試合に勝ってうれしくなるのは当然だから、そのときは素直な気持ちを表現しなさい、というのが原田監督の考え方でした。
そうして星稜、続く日南学園と破ったものの、準々決勝では報徳学園に敗退。「夏も絶対にここに来よう」と誓って京都予選を勝ち抜いて、再び聖地のマウンドを踏みました。
初戦の県立岐阜商業、続く高知商業、浜松工業、準々決勝で徳島商業、準優勝の前橋工業と破って決勝に進出。最後は智弁和歌山に3対6で敗れてしまいましたが、僕にとってはかけがえのいない、充実した夏を過ごせたことは、今でも忘れられない思い出です。(#2に続く)
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