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「こんなの打てるわけあらへんわ」ビッグマウスで甲子園を沸かせた元オリックス・川口知哉(43)が平安高1年の夏にあっさり白旗を挙げた“のちの沢村賞投手”とは…

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  僕(川口知哉)が2022年4月1日に龍谷大平安(以下平安)のコーチに就任して以降、はや1年以上が経ちました。今年の春のセンバツ(第95回選抜野球大会)に42度目となる甲子園出場を果たし、3回戦で仙台育英に1対6で敗れたものの、夏も甲子園出場を目指し、選手たちと一緒に汗をかきながらの指導を送る毎日です。(全2回の1回目/続きを読む)

龍谷大平安でコーチを務める川口知哉氏 ©️上野裕二

 僕自身、さまざまな紆余曲折を経て、再び母校のユニフォームに袖を通せる日が来たことは正直嬉しいです。今から5、6年前、インターネットのニュースサイトに原田英彦監督が「川口を呼び戻したい」という主旨の記事が掲載されました。周りからも、「お前、平安に戻るんか?」と聞かれましたが、僕自身もゆくゆくはそういう形になれたらいいなと思っていました。

 そうこうしているうちに、僕が指導をしていた女子プロ野球が活動休止となってしまい、原田監督のところに今後の身の振り方について相談に行きました。すると、原田監督が学校に掛け合ってくれて、1年ほど協議を続けた結果、母校の野球部にコーチに就任することが決まったのです。指導者として試行錯誤の日々ですが、同時にやりがいを感じながら選手たちと接しています。

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龍谷大平安の集合写真(一番左が川口さん) ©️上野裕二

「平安の練習はトップレベルでキツイ」

 今から29年前の1994年の秋。当時、中学3年生だった僕は、「平安に行く」と決めました。中学時代に在籍していたボーイズリーグの「京都宇治ペガサス」の監督が平安出身で、なおかつ原田監督と面識があったことがその理由でした。

 中学時代の僕のポジションは、ファーストか外野。投手はほぼやっていませんでした。チーム内には僕よりもコントロールのいい投手がいましたし、僕自身も投手に対するこだわりはなかったのです。

 それに当時は打撃に自信があって、打撃練習の時間が来ると僕は毎回楽しみにしていました。それだけに、高校に進学したら、「野手で勝負しよう」と考えていました。

 けれども原田監督は、僕を「平安で起用するなら投手で」と考えておられたと、後に監督から直接聞きました。中学時代の僕のプレーを何度か観に来ていただいたときに、すでにその構想は描かれていたそうです。

 一方、所属していたチームの監督からは、「平安の練習は、京都の学校のなかでもトップレベルと言っていいほどキツイ。覚悟しとけ」と言われていたので、心の準備はそれなりにしていたつもりでした。

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