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「プロ7年間で9試合登板、0勝1敗で引退…」超高校級左腕でビックマウス・平安の川口知哉(43)はなぜオリックスで輝けなかったのか《母校でコーチに就任》

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 高校3年の夏の甲子園でいえば、僕はマスコミから「ビッグマウス」と呼ばれていました。高知商業、徳島商業、前橋工業の3試合で2ケタ奪三振、2試合の完封を記録。僕自身は、「チームが勝つためには相手をゼロに抑えること」と思いながら投げていたのですが、勝ち上がっていくごとに、「次の目標は何ですか?」とマスコミに聞かれていました。

龍谷大平安高校でコーチを務める川口知哉氏 ©上野裕二

 当初は「2ケタ奪三振を狙います」「完封します」と言っていたのですが、準決勝の前橋工業戦で2ケタ三振と完封の2つを同時に達成したときに、「次のもっと大きな目標は何ですか?」と記者さんから聞かれました。

「これは言わそうとしているな」と感じつつも、あえてその誘いに乗っかって、「完全試合を狙いましょうか」と言ったのです。こうして僕はマスコミから「ビッグマウス」と呼ばれるようになりました。(全2回の2回目/前編を読む)

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「あと1つ勝てば優勝や」

 ただ、僕には強気を言うだけの自信がありました。2ケタ奪三振、完封と来たら、その上はノーヒットノーランか完全試合しかありません。決勝まで勝ち上がったことで、「あと1つ勝てば優勝や」という思いもありましたが、それ以上にあのマウンドでこれまで以上にベストピッチングをしたいという思いのほうが強かったのです。

 一方で決勝は生まれて初めて4連投することが決まっていて、体の不安も正直ありました。これまで練習試合で3連投することはあったのですが、4連投は未知の領域でした。

高校時代の川口氏 ©️文藝春秋

 決勝を迎えた朝、体力的に「かなりきついな」と感じていました。3連投目となる準決勝の朝は、肩周りの動きが悪いと感じていたものの、下半身には疲れを感じていなかったので、変化球主体のピッチングで行けばどうにかなると思っていました。

 けれども翌日はそうはいかなかった。原田監督にも僕自身のコンディションのことは伝えていたのですが、早めに代えて継投で行くというゲームプランを聞いていたので、今の力でできる限りのことをするつもりでいました。

 ただ、相手の智弁和歌山打線は、全国屈指の強打を引っ提げて勝ち上がってきたチーム。小手先だけのピッチングは通用しませんでした。

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