両親はともに元アスリートで、小さい頃からホームランを連発…もはや世界を代表する野球プレイヤーと言っても過言ではない大谷翔平選手の幼少期のエピソードを紹介。大天才の幼少期とはいったいどんなものだったのか?

 アメリカの一流ジャーナリストであるジェイ・パリス氏が、メジャーデビューするまでの軌跡を追った『大谷翔平 二刀流メジャーリーガー誕生の軌跡』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

プロになる前から、“怪物級”だった大谷翔平の幼少期とは? ©文藝春秋

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野球を始めたのは小学2年生のとき

 まだ幼い大谷翔平の左打ちを受けたボールは、たびたび川に飛び込んでいってしまい、監督のカミナリが落ちるのが常だった。

 ボランティアで野球を教えている大人が、早熟な子どもに向かって反対側へ打つようにと説得する姿が目に浮かぶようだ。少年野球のチームで使えるボールは数が限られているのに、大谷が打つと川へ落として濡れてしまい、使い物にならなくなるのだ。ちなみに小学校2年生で野球を始めた大谷は、バッティング練習で目覚ましい能力をすでに発揮していた。

若き日の大谷選手と母の加代子さん(画像:MLB公式Twitterより)

 当時から、大谷の伝説は始まっていたのかもしれない。不可能を可能にし、誰も想像しなかった境地へとたどり着くことになる一人の少年は、やがて太平洋の東西でファンを熱狂させるスター選手へと成長していく。

 大谷は1994年7月5日に、東京から北へ400km以上も離れた地方の町で生まれた。育ったのは華やかな国際都市ではなく、岩手県奥州市という寒さの厳しい地域だ。

 大谷の両親は2人とも元アスリートであり、息子は確かにその血を受け継いでいる。

 父親の徹は社会人野球の名門チームである三菱重工横浜でプレーし、引退したあとは社業に就いた。母親の加代子は元バドミントン選手で、同社の実業団チームに所属していた経歴を持つ。

 大谷翔平が岩手県の花巻東高校に進学するころには、明確になっていたことが二つある。彼が夢中になっているのは、歴史と野球であるということだ。

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 特に野球への思いは強かった。

 一流の選手になりたいと願っていたが、そのためには計画を練る必要がある。そう思っていた矢先、野球部の監督が大谷やチームメイトたちに目標を紙に書き出すよう指示した。さらに目標を達成する方法も書かせることで、選手たちは夢に向かう道筋を具体的に記して意識することになった。

 右投げ左打ちの大谷は、日本のプロ野球ドラフト会議で8球団から1位指名を受けることを目標に掲げた。