小学校・中学校の不登校児童生徒数は、2021年度で約24.5万人となった。前年度に比べると、約5万人増の大幅な増え方である。これに不登校状態の高校生を加えれば、軽く30万人を超えるだろう。「ウソくさい」学校に息づまる思いをしているの子どもたちは、もっと多いのではないだろうか。

 ここでは、教育改革実践家の藤原和博氏が、教育現場の理不尽な実態を綴った『学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集してお届けする。(全2回の1回目/2回目に続く)

写真はイメージです ©iStock.com

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「学校」という装置の役割

「ブラック校則なくせ」。そんな活字が新聞の見出しに躍ったのは2017年の暮れのことだ。必要以上に生徒の生活に介入する不合理な校則を、NPО法人らが調査し公に問題にしたのである。背景には、学校の校則に対する批判がテレビやネットのバラエティ番組で激しくなってきたことがある。すべての校則を「児童生徒と議論して決めろ」と乱暴な意見を言う評論家には「それはちょっと違うのではないか」と私は思うが、本書ではまず、「校則のウソ」から始めよう。

 学校の「校」という字の成り立ちは「木」偏に「交」というつくりからなる。

「交」は足を交差している姿だと言われ、刑罰の足枷(あしかせ)に拠るらしい。つまり、「無理矢理やらせる」という意味なのだ。学校はもともと、「学び」を強制する(矯正する?)場所なのである。

 その証拠に小学校、中学校、高校とはいうが、大学校ではなく「大学」と呼ぶ。「大学」は学びを強制されない場所で、強制されるのは「警察大学校」「防衛大学校」など数校ではないだろうか。

「情報処理力」の高い労働者を大量生産するための教育政策

 繰り返すが、学校という場所は、その成立からして、国家が好ましい(と考えられる)国民を育成するための機関であり、自由に学びたい市民たちの革命を経て民主的かつ自然に成立したアカデミーとは性質が違う。

 国家の要請として、日本の国民としてふさわしい日本語を話し、日常生活に支障のない計算能力があり、工場の生産現場に配置しても戸惑わないような旋盤(せんばん)やドリルの知識、事務仕事をスムーズにこなすための社会的な知識を、強制して身につけさせるのが「学校」という装置の本来の役割だ。それがのちに、必修項目が膨らんでいく。商社に入って国際的に商談するためには英語力も必要だし、企業の研究機関で化学繊維や薬品を開発するためには物理や化学の知識も必要だ、となるからだ。