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 マタトゥって、外国人からは怖がられている乗り物なんですが、基本的に庶民が利用するんです。でも、私はマタトゥに対してあこがれを持っていたし、理解を示していたのが皆さんに伝わったのかもしれませんね。

――「自分たちの文化を受け入れてくれた」みたいな。

永松 それで、自分も好きが高じてマタトゥ経営をするようになるんですけど、そこからだんだんケニアの裏側を見て嫌になっていくんです。

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マタトゥを経営していた時の永松さん

ケニアを去ると同時に、ケニア人と結婚したが…

――仕事としていろんな人と付き合うと、また違ったケニアが見えてきた?

永松 当時のケニアの警察の中では賄賂が横行していたので、現金商売のマタトゥは彼らの格好の餌食でした。特に私のマタトゥはこだわりを詰め込んだかっこいい車体だったから目立っていたし、「日本人=金持ち」みたいなイメージがまだある頃でしたから、なにかというとお金を巻き上げられて。

 それでケニアが嫌になって日本に帰ったんですけど、同時に結婚もして。

――日本の方と結婚されたんですか。

永松 私の経営していたマタトゥのマネージャーをしていたケニア人と結婚して一緒に帰国しました。時間は守らない、嘘つき、女たらしという典型的なチンピラですね(笑)。でも、それは環境のせいで、日本に行けば彼も変わるかもと期待しましたが、日本でも彼は彼のままで、他人や私の家族に迷惑をかけてしまう恐れもあったので、すぐ離婚しました。

 90年代のケニアはまだまだ発展途上国で、とにかく先進国に対する憧れがすごかった。だから、お金持ちと結婚して成り上がってやる、みたいなことを考える人がすごく多かったんだと思います。

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――当時のパートナーの方も、良くも悪くも上昇志向が強かったと。

永松 その時のケニアの首都のナイロビの若者たちは、いい車に乗って、最先端の携帯電話を持ってみたいな、物質的な豊かさが人生にとって一番大切という価値観が強かったんですけど、そこにまったく興味を示さず、牛や家族に価値を置いていたのがマサイ族でした。