新しいチャレンジをするにしても“信頼感がある滝沢さんの事務所で”という彼らの選択に、安堵したファンも少なくないと思います。
また、Cさんは滝沢さんの動きについて、こうも思ったそうです。
「タッキーについては、辞めてどうするんだろうと思いましたが、TOBEの立ち上げを知って“タッキー、やるなあ!”と感心しました。プロレス団体の分裂みたいなことをホントにやるとは。ただ、タッキーはプロレスおたくらしいので、なるほどと納得もしましたね」
滝沢さんが大のプロレスファンであることは有名ですが、Cさんの“プロレス団体の分裂みたいなこと”という見解には大いに頷けました。
というのも、私自身TOBEの設立は、故・三沢光晴氏が全日本プロレスを離れて興したプロレスリング・ノアの旗揚げとよく似ていると思ったからです。
「なんだよ、この会社!? と思う気持ちが膨れすぎて…」
三沢氏は創業者の故・ジャイアント馬場氏のあとを継いで1999年に全日本プロレスの社長に就任しましたが、経営方針をめぐって馬場夫人らと対立し、2000年5月に社長の任を解かれました。しかし退団の3日後に新団体「NOAH」の設立を発表したのです。
新団体設立に至った心情を、三沢氏はこのように語っています。
「自分から望んで入った全日本プロレス、しかもそれほど長きにわたって籍を置いた団体ですから、感謝こそすれ恨みや文句なんてありませんよ。
ただね、そこの社長という立場になって、いろいろと不透明な部分が見えてくると、憧れていた頃の全日本が自分の中でどんどん崩れていく……それがすごく嫌でした。なんだよ、この会社!? と思う気持ちが膨れすぎて、プロレスそのものにも愛想を尽かす前に辞めちゃったほうがいいや。というのが正直なところですよ」(「船出――三沢光晴 自伝」光文社刊より引用)
新団体NOAHには、三沢氏とともに全日本を退団した選手24名と多数の社員が合流、ディファ有明で開催された旗揚げ戦を含む3会場6000枚のチケットは、1時間足らずで完売となりました。
信頼できるリーダーを慕って仲間たちが続き、ファンの共感も得て驚異的な売上を叩き出してみせたさまは、胸のすくような痛快さがありました。
爆発的に伸び続けるTOBEのアーティストたちのフォロワー数、入会希望者が殺到し、一時は720分という目を疑う待ち時間が示されたファンクラブの活況を見るにつけ、NOAHが思い出されます。