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快楽の波に呑まれ「堕ちてゆく」

『籠の鸚鵡』 (辻原登 著)

2016/12/06

 セックスで快楽の芯に近づく時に「堕ちてゆく」という感覚がある。身も心も快感の波に呑まれ流され、遂には海の底に沈んでいく。それは理性を失わせもするし、社会性をも時には崩壊させるけれど、ひどく心地がよく、気づけば自ら堕ちることを望んでいる。

 中世、紀州和歌山は補陀落渡海(ふだらくとかい)の地であった。補陀落渡海は捨身の修行であり、僧たちが船に乗り那智の浦より観音菩薩の住まう浄土である補陀落を目指すのだが、いずれは海の底に沈む生きながらにしての水葬だった。

『籠の鸚鵡』は、一九八〇年代の和歌山が舞台だ。主人公は町役場の出納室の室長・梶康男、四八歳の今まで妻ひと筋で子どもはいない。平凡で真面目な公務員である梶は、スナックに勤める女・カヨ子との出会いにより運命を大きく狂わされる。

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 カヨ子は、梶を想い自慰をしていると、性器と行為の詳細な描写を綴る煽情的な手紙を職場に送りつけてくる。梶は、戸惑いながらもカヨ子の手紙と、その大柄な身体から漂う肉の匂いに抗えず彼女と寝る。しかしその情事はただの浮気に留まらず、バブルを背景にしたヤクザや不動産業者の欲に絡み取られ、梶は横領に手を染め転落していく。

 罪を犯して何もかも失ってもカヨ子から離れられない梶、男達に翻弄されながらも悪人になりきれないカヨ子、極道という組織の中で使い捨てにされる峯尾、バブルという悪夢にとり憑かれるカヨ子の前夫・紙谷――欲に囚われた男女が交わり物語は補陀落浄土へ続く和歌山の海に向かってゆく。

 熊野や高野山などの霊場を背景に繰り広げられる人間の堕落の物語を読みながら、私自身も快楽の波に呑まれて登場人物達と共に「堕ちてゆく」感覚を覚えたが、その果ては地獄ではなかった。

 欲望という船に身を任せた愚かな人間たちを乗せて流される舟は、読者をも補陀落浄土にいざなってくれるはずだ。

つじはらのぼる/1945年和歌山県生まれ。90年「村の名前」で芥川賞、99年『翔べ麒麟』で読売文学賞、2005年『枯葉の中の青い炎』で川端康成文学賞など受賞多数。他の作品に『許されざる者』『闇の奥』など。

はなぶさかんのん/1971年兵庫県生まれ。2010年、「花祀り」で団鬼六賞大賞を受賞。主著に『女の庭』『指人形』『情人』など。

籠の鸚鵡

辻原 登(著)

新潮社
2016年9月30日 発売

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快楽の波に呑まれ「堕ちてゆく」

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