『ハウル』『風立ちぬ』そして最新作にも…『もののけ姫』以降の宮崎駿に潜む“変化”
興味深いことに『もののけ姫』以降、5本ある宮崎監督作品のうち、3作品が戦争を扱っているのである。しかも、そこで取り上げられる戦争は正面から扱われるのではなく、すでにそこにある所与のもの、一種の背景として扱われているのである。
そこで描かれている戦争は、様々な国家が近代化していく過程で起きる種類のものである。そして残念ながら、そういった戦争を避け得た歴史を人類は持っていない。だからこそ背景として描かれているのではないか。
そうして考えてみると「異色作」である『もののけ姫』で近代化の始まりを扱ったことをきっかけに、近代化の過程としての戦争、そしてそこに関わらざるを得ない個人というテーマが呼び寄せられているようにも見える。
例えば『ハウルの動く城』(2004年公開)。本作は、原作ではわずかに言及されるだけだった「戦争」を重要な要素としてクローズアップする。そしてハウルには、王室付き魔法使いのサリマンより動員がかけられる。近代国家の形成期に国民皆兵制が導入された例がある通り、近代化と国民の動員は切り離すことができない。サリマンは国家の権威をバックに、ハウルに戦争への参加を求め、同時に荒地の魔女の魔法の能力を強制的に奪い、単なる老婆にしてしまう。
主人公ソフィーは、サリマンの「国家にとって有用な人間と有用でない人間を選別しようとする姿勢」に強く反発する。最終的に、荒地の魔女、ハウル、ソフィーなどのはみだし者たちは、国家の外側に存在する疑似家族を形成する。そしてこの疑似家族の働きが、あたかもデウス・エクス・マキナのように物語の幕を下ろすのである。
零戦開発者として知られる堀越二郎の人生にヒントを得た『風立ちぬ』(2013年公開)は、もっと直接的に近代化を扱っている。宮崎自身もインタビューでモダニズム(近代主義)を扱った作品だと認めている(※4)。
二郎は、飛行機開発者として近代的戦闘機の開発に身を砕く。そのふるまいはそのまま、日本の近代化を目指して進んできた様々な人々を思い起こさせる。しかし彼を待っていたのは、“坂の上の雲”のような白い雲ではなく、空襲で都市が焼き尽くされる黒煙だった。
本作は序盤に、大正時代の終わりを告げる関東大震災の黒煙も描いており、本作が2つの黒煙で縁取られた「近代化が破産していく過程」を描いた作品であることを告げている。
そうした状況に対し、二郎はあたかも近代化の破産をすでに知っている決定論者のように描かれている。決定論的なのは、二郎の妻・菜穂子が結核を病み死んでいく過程の描き方も同様。本作は「近代化の破産と死が待ち受ける、選ぶことのできない一直線の人生」という形で人生を描き出し、そこにエロスとタナトスを強烈に匂わせたのである。
では3本目にあたる、最新作『君たちはどう生きるか』では、どのように戦争と個人が扱われたか。
(※次のページでは、映画『君たちはどう生きるか』の内容の一部について触れています。未見の方にとってはネタバレになる要素を含んでおりますので、ご注意ください)