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 東側には境川が流れ、西側には引地川が流れ、その間は一面の田んぼ。引地川のさらに西側、つまり工業団地や慶應義塾大学のキャンパスのあるあたりは畑が多かったという。いずれにしても、ひと昔前の湘南台は、湘南の清新な、真っ青な海と空というイメージからはほど遠い、農業が基幹産業の村落だった。甘藷(さつまいも)が特産だったようだ。

 農業が盛んだった頃のこの町は、湘南台という名も持っていない。六会村の一部、というのが正しい。六会村の中で、円行と呼ばれていたのがいまの湘南台エリアだ。円行という名は今も地名に残っていて、引地川のほとりには円行公園という公園もある。その周囲には小さな集落も形成されていたようだ。ただ、基本的には農村であり、小田急江ノ島線が通ったところで駅もない。

 

“ぬかるんで泥だらけ”だったこの町が大きく変わったきっかけは…

 そうした状況は、戦後もしばらく続くことになる。道路事情も悪く、戦後間もない時期は雨が降れば道はぬかるみ泥だらけ。せっかくの農産物の輸送にも難儀し、子どもたちの通学も大変だったという。

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 さすがに“街”になったいまはそんな面影はなく、大きくまっすぐな道路が縦横に整備されている。ただ、ところどころに曲がりくねった細い道がある。それは、農村時代の残滓なのだろうか。

 そんなこの町が、大きく変わったのは1961年である。この年、いすゞ自動車の工場がやってきた。貿易自由化を見据えて小型自動車の量産を目指していたいすゞ自動車が新たな工場の設置を検討、いくつかの候補地の中から六会村のこの場所が選ばれた。

 難点の道路事情は工場が来れば藤沢市や神奈川県が整備をすると確約し、大半を占めていた農地は地主たちが買収に同意した。工場が開設されてからは、土地を明け渡した元農家の人たちが工場で働くようなこともあったという。