結婚したら女性は家に入るのが社会常識とされた時代に、女性選手が活躍できる余地は小さかった。公営競技の世界でも女性は姿を消していく。オートレースは岡本七重が67年に引退して以降、選手の養成所が女子を募集しなかったこともあり女性選手はいなくなった。
ボートレースの女性選手は一時期100名近くいたが…
オリンピック競技で男女の別なくおこなわれる競技は馬術だけだそうだから、日本の競馬界で女性の進出が進まなかったのは競技の特性とは必ずしも言い難いだろう。実際、地方競馬では数は少ないものの女性騎手は活躍し続けている。
選手層が薄くなると、選手間の実力に差のあるレースが多くなってしまう。そうなると、投票券の妙味も薄くなり売れ行きが悪くなる。
女子競輪があった時代、田中和子という名選手がいた。田中は圧倒的な強さを見せた名選手だったが、車券の賭け式が単・複・六枠連勝しかない時代だから、田中の出走するレースは配当が低くなり売れなかった。
競輪同様、初期のボートレースにも少なくない女性選手がいた。ボートレース発足間もない54年に開催された第1回全日本選手権競走には、則次千恵子ら3人の女性レーサーが男性選手に交じり出場している。一時期100名近い女性選手がいたものの、その数は徐々に減り70年代末には数名になってしまっていた。
そこに登場したのが鈴木(旧姓・田中)弓子だ。田中は79年4月に第46期生唯一の女性養成員として選手養成所に入所する。田中の入所時、女性選手はわずか4名だったという。
女性選手の大量養成に踏み切る
田中はトップクラスの成績で養成所を修了し、デビュー後も華々しい活躍をみせ、「競艇界の百恵ちゃん」(この頃絶大な人気のあった歌手・山口百恵にちなみ、「○○の百恵ちゃん」が各界にいた)として、マスコミにも大きく取り上げられる。田中の活躍で女性のボートレース志望者も増え、83年8月にはボートレース住之江で実に23年ぶりの女子戦を開催するまでになった。
田中の活躍が話題になると、全国モーターボート競走会連合会は女子リーグの実施を企画し女性選手の大量養成に踏み切る。このあたりが機を見るに敏な笹川良一だ。
以降、数々の名選手が登場したものの、男性選手との混合戦であるSG競走で優勝する女性選手はなかなか現れなかった。2022年3月、ボートレース発祥の地大村で開催された第57回ボートレースクラシック(総理大臣杯)で遠藤エミが優勝し、女性選手初のSG競走覇者となった。ボートレースが生まれて70年、女子戦の復活から実に40年近い年月が流れていた。