女性の活躍が促進される昨今、競馬・競輪・オートレース・ボートレースといった公営競技の世界で活躍する女性選手が増え続けている。一方、その歴史を紐解いていくと、競技によっては勝負の世界から女性が姿を消していた時代もある。そこから、どのようにして女性選手の活躍は再興していったのか。
ここでは、北海学園大学教授の古林英一による『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』(角川新書)の一部を抜粋。競艇界の百恵ちゃんと呼ばれた田中弓子選手をはじめ、各競技で活躍する選手を紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)
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姿を消した女性選手
近年女性の活躍が求められるが、女性の活躍は時代とともに変化してきた。第二次世界大戦直後は女性の社会進出が顕著だったが、高度経済成長期になると、逆の動きが強くなる。公営競技でも同様の傾向がみてとれる。
日本における女性の社会進出は、第二次世界大戦中の男子労働力不足と戦後民主改革による男女平等政策が契機となっている。第二次世界大戦後初の衆議院選挙である1946年の衆議院選挙では39人の女性議員が初めて誕生し、47年に教育基本法が施行され中等教育で男女共学が実現する。男性のみだった大学も女性を受け入れるようになる。
女子プロ野球が誕生したように、スポーツ界でも女性の進出が一種のブームになった。初期の競輪での女子競走実施にはこうした社会的風潮が背景にあった。地方競馬でも女性騎手が各地で登場し、オートレースでも女性選手が登場する。遅れて発足したボートレースでも早い時期から女性選手を採用している。長らく女性に門戸を閉ざしていたのは中央競馬(国営競馬時代を含む)だけだった。
結婚後したら女性は家に入るのが社会常識とされた時代
だが、女性選手がその後活躍することはなかった。高度経済成長期にサラリーマンの夫、専業主婦、2人の子供が「標準世帯」とされたように、女性の社会進出は必ずしも順調に発展したわけではない。
国勢調査による就業者数にしめる女性の比率は、高度経済成長が始まった頃の55年には39.2パーセントだったのが、高度成長末期の75年には37.1パーセントとわずかだが下がっている。高度経済成長期の象徴ともいうべき第18回オリンピック東京大会が開催された64年に女子競輪が廃止となったのは示唆的だ。