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豆塚 はい。母は韓国料理屋を切り盛りしながら、私を育ててくれました。そして私が3歳のとき、母は再婚しました。義父は高校教師をしている人で、母の店の常連さんだったようです。

 幼い頃の記憶では、義父は学校の先生ということもあって、子ども好きで優しいおじちゃんのイメージ。私のことも可愛がってくれた記憶があります。再婚して数年してから、義父の強い希望で大分県の田舎町に移住することになりました。

 

田舎町に移住して1年で家庭内に不協和音が

——それはなぜでしょう?

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豆塚 私が小学校にあがる直前、小児喘息であまり具合がよくないときがあって。自然が多いところで自給自足生活をすれば、私の病気もよくなるだろうと考えたようです。それに、義父はもともと“スローライフ”のような暮らし方に憧れがあったみたいで。引っ越した町は、川や田んぼなどの大自然に囲まれた場所なんですよ。

 母はあまりうまく日本語が喋れない中で、田舎町だとより一層韓国人への偏見も強いだろうと、最初は移住に反対していたようです。でも結局は私の体のことを優先してくれたのか、家族みんなで移住しました。

——移住してからはどのような生活でしたか。

豆塚 義父は仕事を早期退職し、畑と田んぼを買って。母も店を畳んで、2人で農作物を作って生活をしはじめました。自然の多い場所に移り住んだのが良かったのか、私の喘息も落ち着きましたね。

 移住して1年ほど経って、妹が生まれました。初めは家族みんなで仲良く暮らしていたんですが、その頃から少しずつ家庭内に不協和音が生じ始めて。

 

父と母の夫婦仲が悪化した要因

——何があったのでしょう。

豆塚 母はもともと外に出て働くのが好きで、家に入って献身的に家族の世話をするような性格じゃなかった。それでも最初の数年は頑張ってくれていたみたいなんですけど。私が学校から帰ると手作りのおやつを出してくれたり、美味しい夕食を作ってくれたり。

 でも、閉鎖的で不自由な生活にだんだん耐えられなくなったのでしょうね。母と義父も小さな喧嘩が増えていって、家庭内の雰囲気が険悪になっていきました。

——著書には、義理のお父さまが熱心な宗教信者だったと明かしていましたよね。