「楯の会の小賀(正義)氏が運転するコロナでやって来た先生は、助手席から私に顔を向けるといきなり、『君のせいでもう間に合わなくなった!』と怒った口調で言うと、茶封筒を押し付けてそのまま去って行きました」

 国立劇場の芸能部制作室に勤務し、晩年の三島由紀夫の助手としてともに『椿説弓張月』を手掛けた織田紘二氏が、「文藝春秋」に晩年の三島との交流、「未完の遺作」となった作品についての顛末を初めて明かした。

突然訪ねてきた三島

 1970年11月25日、三島の割腹自決の報は日本中に衝撃をもたらした。三島が突然、織田氏を訪ねて来たのは、その2日前のことだった。

ADVERTISEMENT

三島(左)と織田氏(1969年、下田にて)

 手には、三島が自ら朱入れした脚本の入った茶封筒。歌舞伎『椿説弓張月』を文楽版に改めた脚本だった。

 1953年に歌舞伎座で上演された『地獄変』に始まる三島歌舞伎。『椿説弓張月』は6作目にあたり、前作から実に11年ぶりの歌舞伎作品だった。もともとは江戸後期の戯作者・曲亭馬琴によるもので、保元の乱で父・源為義とともに崇徳上皇側で戦い、敗れた為朝が琉球へ渡り、のちにその子孫が琉球王になる物語。

 12回にわたるスタッフ間の会議をはじめ、三島自身も悲劇の英雄・為朝を書くために沖縄へ取材に行くほどの熱の入れようだった。しかし、専属俳優のいない国立劇場は歌舞伎座とは勝手がちがい、三島が出演を希望していた役者のスケジュールが押さえられなかったり、当時の技術を結集して作り上げた舞台装置が使えなくなるなど多くの困難に見舞われ、三島の熱がだんだん冷めていくのを、傍で見ていた織田氏も感じたという。