南呂院、立つ
天正4年(1576)、宇都宮広綱は病没した(※天正8年没説もある)。
32歳の、あまりに早すぎる死だった。幼少期の苦難、そしてそののちの過酷な関東情勢が、彼の命をすり減らしたことは、想像に難くない。
広綱の妻・佐竹氏(俗名不詳。一説に「せうしやう(少将)」)は落飾し、南呂院と号す。生年は不明だが、兄の佐竹義重がこのとき30歳であるため、夫の広綱の世代から考えても、彼女は20代後半と見ていいだろう。
広綱の後継者である嫡子・国綱は、このとき9歳でしかなかった。宇都宮家では、広綱の死を伏せると共に、南呂院が後見役――実質的な当主として、政治を主導することとなった。
「唐(中国)においては則天武后、本朝(日本)においては北条政子の古例がある。当家における南呂院様も、これらに倣(なら)うものであろう」
『関八州古戦録』によれば、宇都宮家の者たちはそのように評しあったという。かくして、「宇都宮の尼将軍」と呼ぶべき女性家長が、ここに誕生した。
その名は「東方之衆」
この翌年、南呂院は、次男・宇都宮七郎(結城朝勝)を、隣国の結城(ゆうき)氏に養子入りさせる。
結城氏は、かつては北条寄りの姿勢を取ることが少なくなかったが、この時期は佐竹氏の説得により、反北条方に転じていた。とはいえ、その指針がいつまで続くかはわからない。
宇都宮氏と結城氏の養子縁組は、いわば結城氏に打ち込んだ楔(くさび)であった。同時に、宇都宮家中の親北条派に対して、
「宇都宮は、決して北条には屈さぬ。佐竹・結城と結束し、坂東武者の意地を貫く」
と表明し、牽制する意図もあったのではないか。
こののちも、宇都宮・佐竹・結城の三家は同盟関係を固く守り、下野の那須氏、常陸の大掾(だいじょう)氏ら、北関東の諸勢力を引き込んで、「東方之衆(とうほうのしゅう)」と呼ばれる領主連合を結成し、北条氏に対抗していく。それは、上杉方でも北条方でもない、第三勢力としての坂東武者たちの独立を意味していた。
以後、宇都宮氏は、北条方の激しい侵攻に脅かされながらも、「東方之衆」の結束のもと、決して敵方に屈さず、必死に防戦を続けた。