とりわけ、21代当主・広綱の生い立ちは、悲痛というほかない。宇都宮家の世子として生まれた彼が、わずか5歳のとき、父・尚綱(俊綱)が戦場で横死する。
突然の当主の死に、宇都宮家中が動揺する中、その混乱に乗じて、重臣・壬生氏が謀叛を起こす。壬生氏は軍勢を率い、宇都宮氏の本拠・宇都宮城に攻め寄せ、占拠してしまった。
壬生氏挙兵の報せを聞いた重臣・芳賀高定は、幼き広綱を抱いて宇都宮城を脱出。自身の居城である真岡城へと落ち延び、以後、広綱を奉じて、宇都宮城奪還のために尽力する。
広綱の幸運は、この芳賀高定が、一途な忠心と、類まれなる智謀の持ち主であったことだ。高定は敵方の陣営を暗殺や策謀によって次々と切り崩し、一方で、隣国・常陸(茨城県)の有力大名である佐竹義昭(名将で知られる佐竹義重の父)との同盟を取りつける。
そして、亡命から8年後――弘治3年(1557)12月、佐竹氏の支援により、ついに宇都宮城を奪還した。
その後、広綱は佐竹義昭の娘――のちの南呂院を、妻として迎えた。
以来、宇都宮・佐竹の両家は、盟友ともいうべき結束によって、乱世を乗り越えていくことになる。
上杉・北条のせめぎ合い
城主に返り咲いたのちも、宇都宮氏の苦難は続いた。
宇都宮氏のみならず、北関東の領主たちにとって脅威となったのは、小田原城を本拠に南関東を席巻し、なおも拡大を続ける北条氏(後北条氏)である。
関東諸侯は一時、越後(新潟県)の上杉謙信を盟主とすることで、北条氏に対抗しようとした。謙信は、三国峠を幾度も越えて関東に来襲し、北条方と激しくせめぎ合った。
謙信は永禄3年(1560)の初めての越山以来、毎年のように関東出兵を繰り返した。しかし、それから9年後――永禄12年(1569)、謙信はもはや北条氏打倒は成らないと悟ったのか、なんと北条氏と同盟を結んでしまう。
この上杉・北条による「越相同盟」は、ほどなくして破綻するのだが、そののちの謙信は情熱を失ったのか、これまでほどの頻度で関東へ出兵することはなくなっていた。
宇都宮氏ら関東諸侯は、愕然とするほかなかっただろう。
「上杉という後ろ盾を失い、このまま我らは、北条に飲み込まれるほかないのか」と。
そんな最中、宇都宮氏を更なる悲劇が襲う。――当主・広綱が、病没してしまったのである。