「……はい」

 

 今年7月下旬のある日、玄関先のインターフォンを鳴らすと、扉を開け老女が顔を出した。そこで私が名乗り、「事件の発覚から今年で21年が経ちますが……」と口にしたところ、小柄で眼鏡をかけた彼女は小声で言う。

 

「具合が悪いんで……」

 

 そして慌てて扉を閉めた。

 2002年3月に発覚した「北九州監禁連続殺人事件」。起訴された案件だけで7人が死亡しているこの事件では、主犯の松永太(逮捕時40歳)と内妻である緒方純子(同40歳)が、緒方の親族などへの殺人罪(うち1件は傷害致死)に問われ、松永の死刑と緒方の無期懲役刑がそれぞれ確定している。

 私が訪ねたのは、福岡県某市にある松永の実家。玄関扉の右上に掲げられた住人の名が連なる表札から、対応したのは松永の母親であると考えられる。たしかに、息子の端正な顔立ちの面影がそこにはあった。

20年以上の時を経て

 松永らが裁かれた犯罪は、福岡県北九州市を舞台としたものであったが、その源流は同県南部の筑後地方にある。松永は生まれこそ北九州市だが、小学校時代に父親の実家がある柳川市に転居しており、緒方は久留米市で生まれ育っているからだ。

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 そんな松永と緒方が筑後地方から逃亡したのは1992年10月のこと。ここではそれまでの間、つまり筑後地方にいた頃の松永について、20年以上の時を経て新たに取得した情報を加え、再度検証していきたい。

中学生時代の松永太死刑囚(中学校卒業アルバムより)

 61年4月に北九州市で畳屋の長男として生まれた松永は、父親が祖父の営む布団訪問販売会社を引き継ぐため、68年10月に柳川市へと転居する。

 その頃の松永の身上・経歴については、後の福岡地裁小倉支部で開かれた一審公判における、松永弁護団による冒頭陳述が詳細を明かしている。ただし、その内容は松永が弁護団に対して行った説明を元に構成されており、後に私が現地を取材して回ったところ、こちらが得た関係者の証言とは多くの齟齬が生じていた。

 つまり、それは松永の望むかたちで作成された身上・経歴であり、事実とは乖離しているということ。たとえば彼の小学校時代について、松永弁護団の冒頭陳述は次のように述べている。