「来てほしい未来を思い描き、手を触れるためには、どんな時間を反復すべきなのか」。『未来散歩練習』は、作家である「私」とスミという2人の女性を中心に、彼女らが出会う釜山アメリカ文化院放火事件に関係した人たち――当時たまたま現場の近くにいたチェ・ミョンファンやスミの親戚で放火事件で刑務所に入れられていたユンミ姉さんなど――が描かれる群像劇だ。
「未来散歩練習」というタイトルはそのまま「私」の日常と重なり合う。たとえば、「私」は普段はソウルに住んでいるが、近い将来、釜山に引っ越すための「練習」を行っている。この引っ越しが「いつか、いや思ったより早く起きることじゃないかなあ、と言ってみる」という具合に。そうすると「だんだんそんな気がしてきて、言葉はやっぱりパワーが強い」と感じる。釜山で色んなものを旺盛に食べたり飲んだりすることを言葉にすることも「練習」なのだ。
未来を「散歩する」とはどういうことか。ミシェル・ド・セルトーは、都市空間から引き剥がされた物語を回復する契機を、創意にみちた歩行という実践のうちに見出している(『日常的実践のポイエティーク』)。「私」も、歩きながら光州事件の2年後に起きたアメリカ文化院放火事件の物語を掘り起こしていく。「私」は、「望みはなく、茫然たる思いを抱いて(中略)死体を探しに行き、取り調べを受け」た光州事件の被害者たちの時間、そしてその事件の真相を知って、未来を構想した放火の主導者たちの時間も散歩する。そうして読者は、単なる放火事件というのっぺりした過去ではなく、韓国を民主化する未来を目指した若者たちの具体的な生を知る。スミは、ユンミ姉さんが刑務所から出てきたときのことも、担任の教員がスミにかけた心ない言葉も記憶している。よもぎ餅を持ってきたり、言葉をかけてくれるユンミ姉さんを「放火犯」として抽象化しない。
「私」も当時犯行におよんだ若者たちがどんなことを考え、行動したかを想像する。彼らは「防火施設と非常口を確認し、火はあまり広がらないだろうと予測し、把握し、決定し」、死傷者が出ることは想定していなかった。「本の中の人たち」も釜山で放火した若者たちの物語と重なり合う。「私」はマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』に登場するジャックや彼の革命家の仲間たちの「苦闘」を想像する。そして、彼らがジャックの仲間たちのように、未来について、すなわち「革命について長時間話しただろうか」と思い巡らす。
よき未来に触れるために建物に放火した人たちを想像する「私」は、予測できない未来を「どうやって学べるというのだろう」と困惑しながら未来と現在の時間のあわいを凝視する。読者もまた、この流動的な時間を綴った言葉のパワーに巻き込まれながら未来を想像するだろう。
Bak Solmay/1985年韓国・光州広域市生まれ。2009年に長編小説『ウル』が「子音と母音」新人文学賞を受賞しデビュー。21年『未来散歩練習』で東里木月文学賞受賞。邦訳に『もう死んでいる十二人の女たちと』がある。
おがわきみよ/1972年、和歌山県生まれ。英文学研究者、上智大学外国語学部英語学科教授。近刊に『世界文学をケアで読み解く』。