さらに、1922年にはお隣の阿見村(現在は阿見町)に海軍の航空隊が設置される。海軍の航空隊員の訓練を行う施設であり、世界一周中のツェッペリン号や「翼よ、あれがパリの灯だ」のリンドバーグも訪れている。ツェッペリン号がやってきたときには常磐線に臨時列車が運転され、20万人もの見物客がやってきたという。
ともあれ、航空隊の設置によって土浦は軍都としての側面を持つようになる。土浦駅南西に今も広がる桜町の歓楽街・風俗街は、航空隊関係者のために湿地帯を埋め立てて設けたいわば“新地”である。戦後、海軍航空隊は陸上自衛隊の駐屯地などになっているが、今の土浦に軍都の顔はない。ただ、歓楽街だけが軍都だった時代を伝えている、というわけだ。
かくしてさらなる発展の足がかりを得た土浦は、昭和に入って川口川の埋立に踏み切る。現代人の目線で考えると、町の中の川を残しておけば水郷都市として観光の目玉にもなり得ただろう。ただ、当時の人にすれば町の真ん中を流れる川は衛生面でもよろしくないし、何よりクルマも増えてきた時代にはジャマだった。かくして川口川は戦前・戦後に2度にわたって埋め立てられて、ほとんど姿を消してしまった。
“土浦の栄光の時代”から“つくばの時代”へ
その埋め立てた川口川の廃川跡は、祇園町と名付けられ、周辺には豊島百貨店(京成百貨店)をはじめ、高島屋や小網屋など百貨店が建ち並び、まさに商都・土浦の中心としての賑わいを見せるようになった。今日はどこに行こうかと選べるくらいの百貨店、東京直結の鉄道ターミナル、海軍発祥の歓楽街。そうしたすべてが整った、土浦は押しも押されもせぬ茨城県南の大都市だったのである。
ところが、そんな栄光の時代はいつまでも続かない。頂点はいつか、ということになると、つくば万博が開かれた1985年だろうか。土浦は万博の玄関口になるべく、土浦駅東口から市街地の真ん中を抜けてつくば方面に向かう高架道路を建設した。土浦ニューウェイという道路で、いまも土浦の街中を高架で横切っている。
土浦駅北側、旧川口川沿いのニューウェイ高架下には、モール505というショッピングモールも開業した。専門店が多いタイプの商業施設で、イオンモールのハシリといっていいかもしれない。しかし、いまになってモール505を歩くと、空きテナントばかりが目立つ。
2階や3階にはエスカレーターや階段で通じているのだが、エスカレーターは閉鎖されたまま。利用する人やテナントが少ないからなのか、老朽化したのをそのままにしているのかはよくわからない。が、ショッピングモールの中の使用停止のエスカレーターには、悲哀を感じずにいられないものだ。