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 さらに、比較的新しそうな大きなマンションも目立つ。1時間30分もあれば都心まで行くことができるわけで、土浦から東京に通勤している人も少なくないのだろう。いずれにしても、土浦駅前はごく普通の、いわばありふれた地方都市の駅前そのものという顔をしている。

 

城下町であり宿場町であり港町でもあった「土浦」

 もともと土浦とはどんな町だったのだろうか。江戸時代の土浦は、9万5000石土浦藩の城下町だった。そして、水戸街道の宿場町であり、霞ヶ浦の港町であった。つまり、城下町・宿場町・港町というみっつの顔を持つ町だったのである。

 中でも、港町としての役割は小さくないものがあったようだ。土浦の港を出た船は霞ヶ浦を横断して佐原付近で利根川に入り、そこから上流方面へと遡って江戸を目指した。地図で辿るとずいぶん遠回りをしているのだが、水戸街道を歩くよりもよほど早く江戸についたというから、舟運もあなどれない。

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 そして、舟運の拠点たる港町ということは、周辺から物資の集まる集散地だったということだ。だから、古くから土浦は商業都市としての一面を持っていた。それが明治以降にも土浦が茨城県南の中心都市として成長することにつながってゆく。

 そんな時代の土浦の中心は、いまの駅前からは北西、歩いて15分ほど離れた土浦城周辺にあった。お城のすぐ北側にはお堀代わりの川口川が流れて霞ヶ浦に注ぎ、それと交差して水戸街道が通っていた。水戸街道が川口川と交わる場所には桜橋が架けられ、まさにこのあたりが土浦の中心だった。川口川は昭和に入ってからほぼ完全に埋め立てられてしまい、いまの桜橋跡地は中央一丁目という名前の交差点になっている。

 

百貨店の誕生、軍都としての成長…100年間で何がおきた?

 明治以降の土浦の発展も、桜橋周辺からはじまった。水戸街道沿い、いまは中城通りと呼ばれている道沿いには金融機関がいくつも建ち並んだ。

 1917年には川口川沿いに土浦繭糸市場が開設される。繭の取引を行うための施設で、百貨店を兼業していた。豊島百貨店といい、繭市場が閉鎖されてからも百貨店は存続。戦後、経営者が替わって霞百貨店を経て京成百貨店になった。桜橋・川口川沿いを中心に発展した土浦の、まさにシンボルであった。土浦駅前からの駅前通りも、この川口川沿いに向かって設けられている。