プーチン政権の言論統制によって、苦境に立たされているロシアのメディア。ノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ氏が編集長を務めた独立系新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」も例外ではなく、これまでに同紙の記者・寄稿者6名が不審な死を遂げている。

 命をかけて報道に取り組むロシア人ジャーナリストたちは今、何を思うのか。ここでは同紙の記者として長年活躍してきた、エレーナ・コスチュチェンコ氏によるエッセイを特別公開。ウクライナ侵攻後、戦争報道に尽力してきた彼女の身に起きた恐ろしい出来事をふりかえる。(全2回の1回目/続きを読む)【翻訳:高柳聡子】

エレーナ・コスチュチェンコ氏 ©Elena Kostyuchenko

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 私は長い間、この文章を書きたくないと思っていた。忌まわしく、恐ろしく、恥ずかしい。

 私の命を救ってくれた人たちを守らなければならないから、知っていることをすべて書くことはできない。

 2022年2月24日に、私の国がウクライナを攻撃した。

 2月24日、私は17年間勤務していた「ノーヴァヤ・ガゼータ」の仕事でウクライナに向かった。

激戦地・マリウポリへ向かう

 2月25日から26日にかけての深夜に、私はポーランドとウクライナの国境を越えた。

 ウクライナ人たちから信じられないほどの支援を得たおかげで、4週間で4つのルポを書くことができた――国境から、オデッサから、ニコラエフから、そしてヘルソンから。ヘルソンは占領されていた。ヘルソンに入るため、そしてヘルソンを出るために私は前線を2度も横断した。ヘルソンではロシア軍が人々を拉致し拷問していた。私は拷問に遭った人たちを見つけ出すことができた。彼らの話を比較検討し、現地で仕事をしながら、私は拉致された人たちが拘束されていた場所を突き止めた――それは、テプロエネルゲチコフ3番地で、元拘置所の建物だった。さらに被害者44人の名前と拉致された状況を入手することにも成功した。私はその文章を公表した。拉致された人たちに関する情報をウクライナ検察庁に伝えた。

 次に私が向かった町はマリウポリだった。

 マリウポリはいまだ抵抗中だった。戦闘が行われていた。人道回廊は何日もないままだった。時々、唯一通行可能となる道があり、それはザポロージエを横切るものだった。そこは定期的に砲撃にさらされていたし、マリウポリに近づくとロシアの検問が始まっていた。それでもほぼ毎日、破壊された町から自分の身内を助け出そうとして、この道を人々が通っていた。ボランティアたちがその人たちを隊列にさせていた。私は彼らと一緒に行くことにした。

当局から“2度目の警告”

 3月28日に私はザポロージエ入りした。検問所で停められている間に(領土防衛隊の戦闘員たちが私のパスポートと許可証をチェックするために取り上げた)、友人たちからメッセージが入り始めた。「ろくでなしども」「頑張って」「助けが必要なら言うんだよ」。それで私は「ノーヴァヤ・ガゼータ」が業務を停止したことを知った。「ノーヴァヤ・ガゼータ」は、ロスコムナドゾール(※ロシア連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁)からこの1年で2度目の警告を受けたのだった。それは報道のライセンスを取り上げるという脅迫だった。侵攻が始まってからこうなるだろうと思ってはいた、けれども、こんなにもつらいものだとは知らなかった。

 それでも私はマリウポリに行くことにした。可能な場所で書いたものを出すつもりだった。