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「私はこうして殺されかけた」ロシア国内で戦争報道に尽力した女性記者が告発…プーチン政権による「言論統制」

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 私は自分の無力を認めることができなかった。理性的な理由では納得できなかった。唯一、私をとめたのは、私を自分の車に乗せてくれる人はどうなるのだろうという考えだった。もし私が殺されたら、彼も容赦されはしないだろう。

 4月1日から2日にかけての深夜に私はウクライナを出た。

最悪の状態で故郷へ向かう

 私は最悪の状態でウクライナを出た。シラミに耳下腺炎にPTSD。友人たちが私を匿い、手から手へと引き渡された。恋人のヤーナが来てくれて、私の世話を焼き、食事や睡眠を見守ってくれた。私は頭がしっかりしたら、執筆中の本を書き上げてロシアの自宅へ戻るつもりだった。私の仕事のすべてが、私の人生のすべてが、私の母と妹がいるあの国へ。故郷からのニュースが恐ろしいものになればなるほど、私の居場所はまぎれもなくあそこなのだと感じる気持ちが強くなっていった。

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 私は、自分が殺されかけたことを考えていた。でも、考えれば考えるほど、私の思考は落ち着いていった。自分の頭の中にあったものを思い出すことは、今の私には滑稽だし恥ずかしい。私は誰が命令を下したのかもわからず、殺人者たちのことを「彼ら」と呼んでいた。 おそらくそれは感情的なものなのだろうと思っていた。戦争は彼らの思い通りにはまったく進んでおらず、みんな気が立っていた。それなのに私はヘルソンから戻るとすぐに彼らの鼻先を通り抜けたのだ、彼らはもちろん調子が狂ってしまった。私がやっていることが明らかになり、マリウポリに向かっていることを知った、町全体が軍の犯罪と化した場所へ、それで、恐ろしいことに、これを未然に防ごうとしたのだった。

 ウクライナ側の最後の検問所と、ロシア側の最初の検問所の間は数キロあったが、そこは誰もコントロールしていなかった。ロシア軍としては、私はまだ自分たちのところまで来ていないと言うことが可能だった。戦場ではひっきりなしに人が消えるものだ。ウクライナ兵たちが私を殺したのだとしても誰にもわからない。私はロシアのジャーナリストなのだし、ウクライナ人たちがロシア人を憎んでいることは周知のことだ。

 生き残れたら良し、と私は思った。

「君はロシアには帰れないよ」

 4月28日の晩にムラトフから電話をもらった。彼はとても穏やかな口調だった。彼はこう言った、「君が家に帰りたいことは知っている。君はロシアには帰れないよ。殺されるだろう」。

 私は電話を切ると叫び始めた。通りに立ったまま喚いていた。

 1か月後に私たちは会えた。ムラトフはこう言った、「ヘイト殺人に見えるだろうね。右翼はレズビアンが嫌いだし、君はレズビアンだ」。

 その後も私は本を書いていた。執筆中は書いていることだけを考えていた。頭の中には、書いている文章以外のことを考える余地はなかった。最良の日々だった。

 9月末に私は再びムラトフに連絡を取った。私がロシアに戻れるかどうか調べてほしいと頼んだ。数日後に彼から折り返し電話がきた、「ダメだ、ダメだ、ダメだ」。